古本屋で何気なく手にとって買った本。ちょっと興味のあるジャンルの本で、値段も意外にリーズナブル、とくれば、特に店頭でパラ見することもなく古本屋の親爺さんがしかめ面している番台に持っていくことになる。
ところが家に帰ってじっくり読んでみると、思いもかけない書き込みや線引きがされていてガックリ落ち込む、というのは古本好きがしばしば遭遇する体験である。百円均一やら数百円の本ならまだ笑って許せるが、プレミアム価格で買った本がこのような傷物だった時などは、山本太郎議員ばりの円形脱毛症が版図を拡大させていくことは間違いない。書込みがある古書は古書価が大きく落ちるからだ。
「お、書き込みだ、ラッキー」
先日、ボーナスが出たのをいいことに、清水の舞台から飛び降りるつもりで、戦後日本文学の最高到達点ともいえる埴谷雄高『死霊』の初刊本(眞善美社 昭和23年)のカバー、栞つきで、しかも著名な評論家Aさんへの献呈署名本(「A様 埴谷雄高」という直筆入り)を某文学専門の有名古書店から入手した。
当然それなり過ぎるお値段であった。ところが、目録には状態についての注意書きが特になかったのだが、手許に届いてみると、かなりの箇所にびっしり書き込みがなされた本であることが分かり、全盛期のマイク・タイソンに強烈な一発を喰らったかのような衝撃を感じた。古書目録においてこれらの書き込みについて記載がなかったのは、明らかに書店のミス。しかし、たとえ筋論としては当方が正しくとも、次回以降、業界屈指の名店であるその古書店の目録でレア本を注文する際、自分に回してもらえなくなるリスクを鑑み、結局そのまま泣き寝入りと相成ったのである。
とはいえ書き込みは、この本を著者の埴谷氏から献呈されたAさんが、難解な『死霊』に、文字通り全身全霊でぶつかり思索した結果をその本に書き込んだものである。その書き込みを読むことは、「文芸評論」という芸術が正に生まれ出るその瞬間に立ち会うような興奮を伴う経験であったのも事実。一昔前の文学少女よろしく、交換日記ならぬ交換『死霊』をAさんと行い、先にAさんが書いた感想をドキドキしながら読むようなヴァーチャル体験すら味わえたことで、十分元が取れたと思えるようになってきた。
これなどは特に高級な方の「痕跡」だが、こんな著名な人でなく、全く無名の市井の人の書き込みや新聞切り抜きの挟み込みであっても、意外に微笑ましかったり、妙に納得してしまったり、その人の人生が一瞬目前に立ち上がってくるような内容だと、「うわ~書き込みがある!価値が下がっちゃうよ」ではなく「お、書き込みだ、ラッキー」と感じてしまうことも、ごくたまにある。そして自分のコレクションの中でもポツポツとそういう動機で購入された本がたまってきていたのである。
さすがにこんな変化球的な楽しみ方をしているのは自分だけだろうと思っていたところが、どうやら最近『痕跡本』という一つのジャンルが確立しつつある勢いらしい。
それどころか、古本屋・五っ葉文庫の若きご主人・古沢和宏氏が『痕跡本のすすめ』なる書物まで出版し、痕跡本の魅力について熱く語っていたのである。行きつけの古書店主からこの書物の存在を教えられた筆者は、同好の士がいることを喜ぶと同時に、この快楽が自分だけの密やかな楽しみではなくなり公にさらされてしまった寂しさもちょっぴり味わったのであった。
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