それ以上に深刻だったのは教師との関係。テストでは国語と英語の成績はずば抜けているのに、数学だけは最下位に近いのだ。得点が「4点」だったこともあった。教師から注意され、必死で勉強し、塾の個人指導も受けたが、数学の成績は下がる一方。精一杯努力しているのだと伝えても、教師からは「怠慢だ。真面目にやらないと将来苦労するぞ」と責められるだけだったという。
念願かなって就職した出版社では複数の作家を担当。しかし、作家たちのスケジュール管理はソウスケさんが最も苦手なマルチタスクでもあった。失敗の連続で、上司からは毎日のように「学生気分はやめろ」と怒鳴られた。「やる気だけは見せなければと毎朝7時に出社して深夜まで残りましたが、結局1年もたずに退職しました」。
このころ、ソウスケさんは自身の発達障害を疑い、医療機関を訪れている。しかし、医師からは「新社会人の甘え」と決めつけられ、検査を受けることさえできなかったという。
脱しつつある「地獄の1年」、その転機は
その後、公務職場なら自分に合っているのではないかと、警備員のアルバイトをして学費をため、予備校に通った。試験に合格してある官庁に正規職員として採用されたが、ここでも連日ミスを繰り返した。押印するときの日付を間違えたり、経費の計算が合わなかったり。「ケアレスミスが人権問題になりかねない仕事。ストレスに耐えられず、2カ月で辞めました。私の職歴を知っている上司から『いい加減逃げ続けるのはやめろ』と言われましたが、限界でした」
そして始まったのが“地獄の1年”。今ソウスケさんはその暗闇から脱しつつある。いったい何が転機になったのか。
ソウスケさんはひきこもりに近い状態の中でも、マンション清掃のアルバイトを続けた。週3日ほどしか働けない時期もあったが、何かしら社会とのつながりを持ち続けなければという一心でこの仕事だけは辞めなかったのだ。また障害者手帳を取得したことで、父親の態度が少し軟化したという。
「(マンションの)大家さんが理解のある人で、私の体調を気にかけながらシフトを調整してくれました。私も障害の特性がわかってからは、リストバンドタイプのメモ帳を身に付けるなどしてケアレスミスをなくすようにしています。父については、障害のことを手帳という目に見える形で示せたことがよかったんだと思います。
少なくても収入があり、家族の理解も得られるようになって。私自身、ミスをしても『くよくよするな、これが特性だ』と障害を受け入れられるようになっていきました」
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