日航機墜落現場を写した私の忘れられない記憶 35年前の御巣鷹山を撮影したカメラマンが残す
南相木村に着いたのは深夜の11時半だった。すでに地元の消防団や警察が集まっていたが、いわば右往左往しているという状態であった。小学校の運動場に車を誘導されて、急ごしらえの白いテントの対策本部が慌ただしく設置されていた。夜が明ける頃、20名余りの自衛隊員が現場の捜索に行くと言う、私たちはともかく彼らを追いかけていくことにした。
山に登るのだから、軽装で靴はトレッキングシューズにした。装備はノースフェイスのバックパックに軍手やパンを詰め込んだ。カメラはモータードライブを外した機械式一眼レフのニコンF2とFM2を、レンズは現場に近寄れるか、またはまったく近寄れないかのどちらかだと考えて、20ミリと300ミリと1.4倍のテレコンバーター。それから、機動性を考えて、28ミリのレンジファインダーのライカCLEを首にぶら下げた。
フィルムはトライXを7本ばかりケースごと投げ入れて合計10本という計算だ。デジタルカメラ時代では考えられないことで、今を思えば頑張っても360カットしか撮影できない計算だ。
飛行機の翼を望遠レンズで確認
私たちの足で自衛隊を追いかけるのは無理であった。とてもついてはいけず、一緒に歩き出したテレビ局のクルーは機材の重さもあり遅れ出した、ひと山越えて峰の頂上に出た、眼下にJALの文字が見える飛行機の翼が望遠レンズで確認できた。
そこにどれくらいいたかは定かではないが、現場を目視できたことは非常に助かった。そのまま無謀にも崖を降りていった。道もない深い森林に入って急に不安になったが相棒の記者と、とにかく現場に行くという使命感だけは強くあった。
しかし、すぐに方向感覚がおかしくなり、どこをどう進めばよいのかわからなくなって途方に暮れたが、もう後戻りはできない。なんとか上空の自衛隊の大型ヘリコプターが飛んでいる音の方角に向かって、たまたま出た沢を伝っていくことにした。何度も立ち止まり方向を確認したり、喉の渇きを潤すのにフィルムのケースで沢の水をすくって飲んだりもして、黙々と清水が流れている小さな沢を歩き続けた。
無我夢中という表現がぴったりだった。どのくらいの時間が経過しただろうか。徐々に断熱材のようなものがふわふわと舞ってきて、飛行機の小さな残骸が落ちているのがわかった。不思議だがトランプのスペードのエースが落ちていた。飛行機が墜落した場所が近いことを悟って、足早に向かった。
10時過ぎだったであろうか、目の前がパッと開け、木漏れ陽のようにキラキラ光るものが見えた。近づくと、木の枝がからまりあって塊のようになっているのが目に飛び込んできた。飛行機らしき翼の残骸やブルーのシートも目に留まった。
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