日航機墜落現場を写した私の忘れられない記憶

35年前の御巣鷹山を撮影したカメラマンが残す

望遠レンズで確認できた、JALの文字が見える飛行機の翼(撮影:小平尚典)

1985年8月12日、日本航空JAL123便が御巣鷹山に墜落してからまもなく35年、またあの暑い夏がやってきた。

ご遺族の方々にとっては、また悲しみの夏である。昭和という時代の出来事の中では戦後の大きなニュースになったことは言うまでもない。一方、この時間軸の歳月が、この事故を私たちの記憶の中から少しずつ忘れさせているとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。その時間で癒やされていった方々もいるのだろうが、最愛の方を失った悲しみは今も癒えないと察する。いまだ、墜落の原因は諸説あり、多くの書籍も刊行されている。

そんな中、当時の現場を取材した身として私の記憶と記録としての当時の写真を残しておきたい。

35年前、私は新潮社『FOCUS』誌の契約カメラマンとして、生存者のいる事故現場にいち早く到着した。当時31歳だった。

東京から車で南相木村へ

あの日、初めての合併号で夏休みであったが、私は東京留守番チームで都内にいた。北海道にいるスタッフからの電話により、「日航機に異常の事態が生じたかもしれない」という第1報があり、慌ててカーラジオでNHKニュースを聞いたのは夜7時15分頃であっただろうか。どうも長野県と群馬県との境にて航空管制官との通信が途絶えたような情報がアナウンスされている。

その直後、同僚だった『FOCUS』誌のT記者は、長野県の別荘にいた知人から「少し前に凄い音で飛行機が飛んでいった」という電話を受けた。T記者は前日まで、そこで久しぶりの休暇を楽しんでいたのであった。私もアウトドア雑誌の取材で八ヶ岳方面や南相木村のあたりの地理には詳しかったので、T記者と2人で落ち合ってともかく現場(その時点ではまだ墜落現場が確定できなかった)近くまで行くことになり、午後8時半頃に東京を出発し、車で南相木村に向かった。

携帯電話がない時代、数日前に自動車電話を搭載したばかりで、高速道での情報交換で非常に助かった。

3チームで現場に向かうことにし、私たちが南相木から、あとは上野村と三国峠からだった。

ラジオからは日航123便の乗客名簿を読み上げるアナウンサーの淡々とした声が流れてきた。

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