日航機墜落現場を写した私の忘れられない記憶 35年前の御巣鷹山を撮影したカメラマンが残す
人の声がした。私たちは「プレスの者です」と、手を振りながら、彼らのほうに近づいていった。数人の地元消防団員の救援隊の人々は、何をどうしたらよいのかわからないまま茫然と山の中腹の丘に座っている。「よく来たなあ」と言われて私たちも彼らの近くに座って、夢の島のような残骸を見ていた。信じられないが木々をなぎ倒したため新鮮な樹木の匂いがした。
残骸の中から、白い手が一度だけ振られた。ピカッと、指輪のリングが光る。途方に暮れていた捜索隊は一目散に駆けだした。「何か動いたぞ、生存者がいるぞ」の声が谷間に響く。
手を振りリングが光ったのはパーサーの落合由美さんだった。よくも負傷しながら残骸の中から最後の力を振り絞って手を振ったものだ。事前に放射性アイソトープを積んできたので、機体には近づくなみたいな注意があったが皆、忘れていた。
とにかく、生存者がいることがわかってからの救援隊の行動は素早かった。いつの間にか長野県警や自衛隊が集まり、吉崎博子さん、美紀子さん母娘、落合由美さん、川上慶子さんと4人を次々救出していった。
樹木がクッションの代わりになったか
そこは「すげの沢」という場所で、飛行機は機首から山頂にぶつかり、胴体後部だけが山の裾野の沢に後ろ向きで雪崩れ込んだ形であった。樹木がクッションの代わりになって最後部あたりに座っていた4名が生き残ったと推測される。
自衛隊のチームがジュラルミンのドアや近くの木々を利用して次々にタンカをつくっていく。ヘリコプターが近づくと埃が舞い一瞬身動きができない。少し雨も降ってきた。
残念ながら「5人目がいるぞ」の声は聞けなかった。
それからが遺体の収容など、皆黙々と作業が始まる。3時間の滞在で午後1時過ぎには、ここでは待機できないので報道陣は下山するように促され、皆で並んで上野村を目指した。
またこれが大変で、ほぼ夕暮れ時にフラフラになり村道に出て、村役場の消防自動車にぶら下がって役場に戻ってきた。T記者は10円玉をたくさん持って、公衆電話に並んで報告していた。上野村からタクシーを頼み、南相木村に戻り、早朝に東京に帰還した。人生で一番長い1日だったような気がする。
非情な夏の出来事であり、報道写真家としてあの時感じた「生」への痛切な願いと祈りをいまだに毎年のこの時期に思い出す。
墜落地点/東経138度41分49秒、北緯35度59分54秒。墜落時刻/1985年8月12日、18時56分27秒92。乗員・乗客524人、生存者4人。
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