善と悪を併せ持つ人間を体現したキャラクター
ジャッキーはかなり“黒い”ところもあるが、仕事は“デキる女”だ。てきぱきと指示を出し、見習いナースのゾーイ(メリット・ウィヴァー)や、微妙に使えないイケメン医師クーパー(ピーター・ファシネリ)らをうまく使いこなし、女上司アカライタスの小言もなんとかやり過ごす。その方法は、しばしば型破りでギョッとするほど大胆なものもあれば、違法すれすれ(または違法)なこともある。
めまぐるしく動き、1秒を争う患者たち(ときには変な人もやってくる)を相手にするジャッキーの仕事ぶりには、デキる人のところには、仕事って他人の何倍も集まってきてしまうものなのだと痛感させられる。仕事の合間にトイレでひとり、大きくため息をつくジャッキーを、心から大変だよねえと共感or同情する人は多いに違いない。
だからといって、不倫はどうなのか? そして腰痛持ちではあるが、鎮痛剤や精神安定剤をくすねて必要以上に服用しているため、すでに依存症ぎみ(鎮痛剤などの処方薬による薬物依存は『Dr.HOUSE』もそうだが、アメドラ〈アメリカのドラマ〉ではよく描かれる社会問題のひとつだ)。かわいい娘がふたり、そして夫は理想的なのに、なぜ?と思うが、そこが興味深いところなのだ。なぜなら、ジャッキーは善と悪を併せ持つ人間という生き物の複雑さを、極端な形で体現したキャラクターだから。
ジャッキーがここまで追い詰められた理由は、完全にワーカホリックでありながら、すべてをうまくやろうと頑張りすぎた、または頑張れば何とかできると思ってしまったからにほかならない。おそらく、本質的に優秀な人間だから両立は可能だと考えたのだろう。
もちろん、現実的には「頑張って当たり前でしょ!」という、おしかりの言葉はあるとしても、ジャッキーの行為そのものというより、にっちもさっちも行かなくなって現実逃避したくなる心境への共感度が高いはず。フルタイムで激務をこなしながら、家庭も切り盛りすることの大変さは、多くのワーキングマザーが実感しているに違いないから。
それでも仕事を辞めないのは、バーを経営する夫の稼ぎだけでは足りないという経済的な理由が最大にして切実。だが、同じレベルで、人の命にかかわる仕事に、ジャッキーは生きがいと使命感を感じていることもまた事実である。
当然のことながら、ジャッキーは自分がやっているストレス発散方法が間違っていることは、自覚している。だからこそ、このドラマは教会付属の総合病院という設定なのかもしれない。ジャッキーはしばしば自らを戒めるかのように、教会のいすに座って、神に語りかける。そして愛人と別れた後、愛する家族が待つ家に帰ったとき、夫ケヴィンの笑顔を見て心の中でつぶやく。「神よ、私を善人にしてください。でも、それは今日ではなく」と。
仕事では、見習いナースのゾーイから尊敬の念を込めて「聖母様のよう」などと言われることもある。それもジャッキーの一部ではあるのだが、実際にはウソつきで薬物依存で不倫までしている女性が、「(いつかは)善人になりたい」と願うとは! もっとも、“今すぐ”ではないところがジャッキーの甘さなのだが、この言動の矛盾は、多かれ少なかれ、人間が日々感じているジレンマなのではないか。そう思うと、筆者はジャッキーのことが嫌いになれない。
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