提唱者たち、いわく。
くだんの状況では、PCR検査の体制も余裕がないと思われるので、コロナウイルスに感染したかどうかの判断は症状の診察のみで行う。結果的に、感染していない肺炎患者についても「うば捨て」してしまう事例が生じるだろうが、それは仕方がない。
ただし遺族から訴えられる危険があるので、政府はあらかじめ、医療機関に対して誰も(実質的に)訴訟を起こせないようにしておく必要がある。
ボディ・ポリティックの一部を、あえて犠牲にしなければ生き残れないほどの危機というのは、たしかに存在しえます。
しかしそれは身体の一部を切断するのと同じですから、助かったあとも後遺障害が残る。
後期高齢者の多くには、子供や孫、あるいは若い親族がいるに違いない。
だからこそ訴訟対策の話が出てくるわけですが、「おじいちゃん(おばあちゃん)が国の方針で見殺しにされたうえ、病院を訴えることまで禁じられた」となったとき、国民統合や社会的連帯が無事で済むと思いますか?
そんな国家が再び一体性を回復し、経世済民を達成できるなどと、虫のいい期待を抱くべきではありません。
まして「ボディ・ポリティックの分断(=必要に応じた弱者切り捨て)」を妊婦にまで当てはめたら、少子化対策も何もあったものではない。
「世の終わりが来るとき、身重(みおも)の女は不幸だ」というキリストの言葉ではありませんが、ずばり国が滅びる。
ボディ・ポリティックの危機は、一体となって乗り越えるしかないのです。
ナショナリズムだけでは足りない
さて、第三の原則について。
パンデミックとは、国境や国籍を超えた感染症の拡大です。
国境を越えたヒトや物の移動が盛んになればなるほど、当然ながら発生のリスクは高まる。
つまりはグローバル化の負の側面。
ならば今回のコロナウイルスの流行によって、ナショナリズムへ回帰しようとする動きが生じるのは必然でしょう。
評論家の中野剛志さんが的確に要約しています。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら