「腐った肉が我慢ならない」感性は絶対重要な訳 白井聡が説く「資本制社会の外部」の必要性

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『国体論』で注目されているのは、2016年8月に発せられた天皇陛下(現・上皇陛下)の「おことば」である。

アメリカを事実上の天皇と仰ぐ戦後の国体は、今や日本の社会や国民を破綻へと導きつつある。そうした中、国体の中心にいると思われていた天皇が「おことば」を発し、その流れに待ったをかけた。その意味で、あの「おことば」は戦後の国体とは別の原理、すなわち国体の「外部」を指し示すものだったと言えるだろう。

もっとも、天皇が「おことば」を発するだけではまだ不十分だ。白井氏は、あの「おことば」が歴史の転換を画するものになるには、民衆の力が必要だと述べている。つまり、真の意味での民主主義こそ、国体の「外部」を切り開くものだということである。

当たり前の感性を取り戻す必要性

『武器としての「資本論」』では、これらの著作よりもさらに踏み込み、具体的な議論を展開している。この中で強調されているのは、「感性」の重要性である。

私たちは現在の資本主義社会を自明のものと見なしている。毎朝、満員電車に揺られて出勤することも、低賃金・重労働を強いられることも、我慢して受け入れなければならないと思い込んでいる。こうした状況から脱却するには、「これはおかしい」「これは我慢ならない」という当たり前の感性を取り戻す必要がある。白井氏は次のように述べている。

歴史上試みられてきた階級闘争の実践は、すでに見たように、多種多様なものがあります。それらはみな、本当は今もなお有効性のある実践として再度手に取られる武器となり得ます。しかし、大衆にそもそもその意思がなければ、そのような実践に向かうことはありえない。この意思を抹殺したことこそ、新自由主義の最も重大な帰結だと私は思います。
それゆえ、意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか。そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。(『武器としての「資本論」』280頁)

白井氏が具体例としてあげているのは、第1次ロシア革命の最中に起こった戦艦ポチョムキンの反乱である。あの反乱は水兵たちが腐った肉を食わされたことがきっかけだった。「腐った肉は我慢ならない」という感性から、上官を倒す階級闘争が始まったのである。

現在の新自由主義に対抗し、資本主義社会の「外部」を模索するためには、感性の再建が急務である。基礎的な感性を取り戻すことこそ、資本主義と戦う主体を確立するための糸口なのである。

哲学史を振り返ったとき、感性を重視した哲学者として真っ先に思い浮かぶのはフォイエルバッハである。フォイエルバッハはマルクスが批判した哲学者としても有名だ。

『資本論』の読解を進めた白井氏が最後にフォイエルバッハに接近したという事実は、非常に興味深い。白井氏が今後の著作でどのようにフォイエルバッハ論を展開していくのか、そこも注目すべき点であろう。

中村 友哉 「月刊日本」編集長

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なかむら・ゆうや / Yuya Nakamura

1986年、福岡県生まれ。早稲田大学卒。学生時代から『月刊日本』編集部で働き、2021年より編集長。

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