彼女はこの季節になると最も読みたくなる古典、『蜻蛉(かげろう)日記』を執筆した、ベテランの恋愛アドバイザー。甘ったるいチョコの言葉より、彼女の言っていることのほうが100倍信憑性はあるので、今年も改めておさらいしておこう。
周知のとおり、『蜻蛉日記』は970年前後に成立したと思われる、初の女性による日記文学の作品だ。当時の政治界のドンになりつつあった藤原兼家との恋愛関係の真相を暴露するという明確なテーマを中心に構成され、作者は「自分を客観的に見ているわ」という主観丸出しの発言を連発しながら、貴族の結婚生活たるものは何ぞやを詳しく解説している。
あまり「かげろう感」がないみっちゃん
題名の由来になっているのは「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし(相変わらずのものはかなさを思うと、あるかないかもわからない、まるでかげろうのような身の上話を集めた日記なのかしらね)」という有名な一文だ。
「かげろう」ははかなさを象徴する歌語であり、同時期に書かれた和歌などにもたびたび採用されているイメージだが、『蜻蛉日記』のその一節の中で「蜉蝣(カゲロウ)」、または「陽炎(かげろう)」のうち、どちらの意味で使われていたかが定かになっておらず、複数の解釈が存在している。
少ししか生きられない弱い生物なのか、モヤモヤとしたゆらめきなのか、いずれにしても著者が伝えたかったのは、自らの人生がつかの間の、取るにも足らないものであるということに間違いない。しかし、本作を少しでもかじったことがある読者であれば、本当かよ!?という素朴な疑問を持つはず。
『蜻蛉日記』も、そのページから浮かび上がってくる作者みっちゃんの面影も、はかなくて、もろくて、すぐに消え去りそうな存在とは正反対だもの。むしろどちらかというと、ガッツリ、どっさり、ボリューム満タンといった感じのほうが正確だろう。
「あいつのせいで人生台無しよ」という、ごもっともな主張を力強くなされているので、確かに軽いタッチで書けるような内容でもないし、その“重さ”こそが作品の性格を特徴づけるものでもある。しかし、『蜻蛉日記』はただ単に女たらしの夫に対する憎みや、自らの結婚生活の不満がつづられているだけのものでは終わらない。
かげろうだの、露だの、涙だの、ゆらゆらと落ちてくる桜の花びらだの……みっちゃんの手にかかると、平安文学らしいモチーフはすべて怒り、嫉妬、不信感の予兆に生まれ変わる。つまり、彼女はあの清らかな平安の世界に、「ウザさ」を吹き込んだ強者であり、『蜻蛉日記』は恋人たちがときめく誘惑の言葉に対する最強の解毒剤だ。
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