SNSに疲れた現代人に贈る「面白さ」の本質論 万人ウケする「面白さ」がすべてではない
「面白い」の1つの要素として、「興味深い」という方向性がある。頭脳の働きの面白さ、クイズやパズルなどの「面白さ」が、これである。
単に歴史について書かれた本や、科学者の一生を語った伝記なども、読む人によっては「面白い」ものになる。単に「知る」だけでも「面白い」と感じる。自分が興味を抱いているテーマであれば、なおさら「面白さ」を感じるはずだ。いったい、知ることの何がそんなに面白いのだろうか?
「知る」とは、「知らない」ことに気づくこと
僕は24歳から48歳まで研究が仕事だった。ずっと研究に没頭する生活だった。研究というのは、「知る」ことの究極ともいえる行為だろう。
普通の「知る」は、人に教えてもらうか、調べるか、検索するかでほぼ実現するが、研究とは、世界で自分が初めて知るという意味だから、研究する対象は、その答えが世界のどこにも存在しない。誰も知らないことだから研究するのだ。
研究者というのは、この究極の「知る」を体験する人のことだが、そのモチベーションは、「知る」ことの面白さに尽きる。世の中にこんな面白いことがあったのか、という体験ができる。
もちろん、研究成果は、社会に認められ、なんらかの利益につながる。例えば、学会から賞をもらったり、あるときは、特許で儲かったりする。だが、それは微々たる問題で、最初の「知る」面白さに比べたらかすんでしまうだろう。自分が知らないことに気づくのが、「知る」という体験だといえる。
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