SNSに疲れた現代人に贈る「面白さ」の本質論 万人ウケする「面白さ」がすべてではない
普通、他者から認められること、褒めてもらうことが楽しみだ、と考える人が多い。周囲から「いいね」をもらわなければ意味がない。周りに無視されるのは地獄だ、と考えている人が、最近の若者には多いとも聞く。これは、「面白い」とは、大勢に受けるものだ、という認識である。
この価値観の人が面白いものを作るには、周囲の声を聞き、それに反応して試し続けるしかない。自分の思考や技術ではなく、周囲の空気を読むことが重要となるだろう。
研究者の価値観は、これとまったく対極にあるともいえる。面白いと感じるのは自分であり、面白さを生み出すのは、自分の思考だ。
僕は、研究者から作家になった。わりと珍しい人生を歩んだことになるが、エンターテインメントを仕事にしても、研究者だった頃と、この意味ではまったく価値観に変化がない。当たってなんぼの世界にいても、面白さを作るのは、あくまでも自分の頭だと認識している。人の声に左右されることは、僕にはない。
ただ、どういったところへボールを投げれば、受け取ってくれる人がいるのか、という意味で環境を観察することは重要だ。これが、ネットでいろいろな人の考え方を眺める理由である。受けるものを作る仕事になっても、自分が作り出すものの質には変化がない、ということである。
「知る」ことと「気づく」ことはちょっと違う
「知る」ことの面白さには、もっと別の要素もある。ただ知るだけではなく、知ることによって、なにかに「気づく」という体験があると、さらに劇的に「面白い」ものになるだろう。
「知る」と「気づく」はどう違うのか。「知る」のは新しい情報だが、「気づく」のは、これまで自分が知っていたことと「関連づける」行為が伴う点が異なる。
ミステリーにおいて、探偵が事件を解決するシーンは、定番の面白さといえるだろう。そこで披露される真相は、読者に「それは知らなかった」と思わせるだけでは、面白くもなんともない。そうではなく、「ああ、だからあれが、あんなふうになったのか」と気づかせることが、ミステリーの「面白さ」の根源だ。意外な関係に気づかされること、といってもいいだろう。
興味深い「面白さ」は、とても幅広い。なぜなら、人それぞれ、いろいろなものに興味を持っているからだ。例えば、恋愛に関心がある人なら、恋愛を扱ったものが「面白い」と感じる確率が高くなる。どんな恋愛なのか、さらに掘り下げていくと、もっと興味深い「面白さ」に出合うかもしれない。
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