樹木希林さんが病床で9月1日を気にした理由 娘が聞いた「どうか生きてください」の真意 

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内田:「日常のなかで死にたい」とずーっと言っていた願いが叶えられたんですよね。本当に見事な最期でした。

ただ、あのタイミングで「家に帰りたい」と言ったのは、母が理屈ではなく「今だ」と感じることへの感度がすごく高かったからかな、と。

内田也哉子(うちだ・ややこ)/1976年生まれ。文章家、音楽ユニットsighboatメンバー。3児の母(写真:不登校新聞)

もしかしたら私を育てているときも、いろんな壁にぶつかったんだけど、そのたびに「これは大丈夫」「ここまでは大丈夫」というのを感じ取っていたんじゃないかとさえ思います。

ふだん生きていると、いろんな情報に押しつぶされちゃって、感覚だけでは、なかなか選びきれないじゃないですか。でも母はそれをすごく上手に、75年の生涯だったけれども、やってきたんだろうなあと思います。

石井:この対談の直前に也哉子さんはフリースクールを初めてご覧になられて「ショッキングですね」とも話されていました。印象的だったのは、どんなところだったのでしょうか?

母の影響力

内田:それは私が育ってきた環境もあるんだと思います。というのも、私は母からとても自由にさせてもらっていました。何に対しても「あなたが決めてよ」と。

私が出した結論については、その結果がどうであれ、母から責められることはありませんでした。でも、私にとっては「自分が決めた」という責任はつねに重く感じていました。

だから、私にとって自由は重く感じられるもので、フリースクールでは「授業も子どもたちが自由に選べる」と聞いて、これはシビアだな、と。

石井:なるほど。樹木さんの方針が影響していたんですね。

内田:私がインターナショナルスクールから、「日本の学校に行ってみたい」と公立の小学校に移ったときもそうでした。

小学校6年生の終わりごろに公立に入ってみましたが、すごく合わなかったんです。私という「異物」が突然入ってきたことで、クラスのコミュニティがざわざわしてしまった。

今思えば「いじめ」だったと思いますが、お友だちができないまま数カ月間をすごして、私は毎日泣いて家に帰っていました。

ある日、そのようすを見た母が「何をガマンしているの、やめればいいじゃない」って。たしかに学校はつらかったんですが、私が相談する前から選択肢をバーンと与えられてしまい、とまどったんです。

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