なにせ、ハックが魔術師によって鳥に姿を変えてもらおうと思ったら、間違えてコレラ菌にされてしまい、やむなくそこいらにいた浮浪者の体内に入り細菌として暮らし始めるというのだから驚きだ。アメリカ最大の文豪とはいいながら、今から百年以上も前に、よくもまぁこんなシチュエーションを考えついたものである。
しかし残念ながらこの小説(少なくとも邦訳書)、読んでいてあまり面白くない。コレラ菌になってしまったハックが何とか人間に戻ろうと四苦ハックするなら、そこから生まれる焦燥感やサスペンスも生じようが、ハックは冒頭の方で既に、細菌として暮らしていくことをあっさりと受け入れてしまう。そして細菌の世界も人間界のように色々な民族に分かれていて、それぞれの種族は人間と同じような習慣があって・・・という細菌世界が紹介されていくのである。
もちろん、『細菌ハック』におけるトウェインの主眼は、全く違うところにあるのだから、ハックが無理に人間界に戻ろうと焦る必要はないし、それを求めるのは見当違いというものだ。
しかし、それにしても主眼であるところの風刺も、『ハック』や、同じように現実を空想の世界にあてこんだ『ガリヴァー旅行記』などと較べると、精彩を欠いているように思える。
そこが、『細菌ハック』が、有名作家のトンデモ作品(=珍書)になってしまったゆえんといえるだろう。
性格的にはハックとの共通点なし
『ハック』に比べると文章の生命力も低くなってしまっているように感じる。研究書を読むと、トウェインは明らかに『細菌ハック』の主人公をハックルベリー・フィンとして想定していたようなのだが、その割には名前がハックという以外、性格的な面や語り口において、あまり共通点がないのが残念に感じられる。
ただ、文法がハチャメチャだったのがハックの語りの魅力だったのに対し『細菌ハック』におけるハックは、「私は人間界にいた時、語学が得意だった」といけしゃあしゃあと語っている割には、コレラ菌として暮らしている間に英語をだいぶ忘れてきて、結果としてこの小説では、やっぱりかなりファジーな文法になってしまっている、というユーモアは中々イカしている。
という訳で、純粋に『ハック』を読むときのような喜びと興奮と感動を得られる訳ではないが、トウェインがこんなものまで書いていたのか、と素直に驚嘆できる作品であるのは間違いないので、ご興味のある方は手にとって試し頂きたい。
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