子ども向けリライトとオリジナルに大きな食い違いがある作品は、ほかにもたくさんある。
そのアメリカ大陸代表といえば、これはもうなんと言っても、マーク・トウェインの『ハックリベリー・フィンの冒険』(以下『ハック』)だろう。
『トム・ソーヤーの冒険』ではトムのよき相棒役だったハックが、逃亡黒人奴隷であるジムとミシシッピー川を下っていく凸凹珍道中というのが、この物語。その内容から、まるで少年向けの冒険物語のように思われているのだが、実際に完訳版を読んでみると、かなり違った顔が見えてくる。
白人至上主義に基づく強固な道徳観
奴隷を人間扱いすること(ましてや黒人奴隷の逃亡の手助けをすること)は神の意志に反し、そんなことを考えただけでも地獄に堕ちる、という白人至上主義に基づく道徳観念が唯一絶対である社会に育ったハックは、飲んだくれの父親から逃げるため、行きがかり上、逃亡奴隷ジムとミシシッピーを下る。
しかし逃亡の川くだりを通じ、ジムの穏やかで穢れのない人間性に触れ、さらにろくでなしの白人たちの姿を目にするうちに、ハックの考えは変わり始める。徹底的に教え込まれ、自分にとって空気同様当たり前のものになっていた旧弊な南部の道徳観念への信頼が揺らぎ、遂にハックは、たとえ自分が地獄に堕ちようとも、絶対にジムを助けようと決意するに至る。
ハックの暮らしていた社会には「奴隷を人間として扱ってはならない」という「道徳」を崇める人たちしか存在していない。そんな世界で生まれ育ち、しかも学問を徹底的に嫌っているハックには、世界に他の考え方があるなど考えもつかない。もしそんな恐ろしい考え方が存在するとしても、それはハックがそれまでの全生涯をかけて築き上げた善悪観に照らして、絶対に神の意志に反するものなのだ。
ましてやハックは、のらくらないたずら者ではあるが、人一倍迷信におびえ、神の罰を恐れる少年である。それだけの前提条件が重なっていながら、必死に考え抜いた末にハックが辿り着いたのは、ジムを救うためならば、おれは地獄に堕ちたって構いやしないんだという決意であった。ハックの「神(=道徳)の放棄」は、ある意味ニーチェにとっての「神は死んだ」よりも重い意味を持っているのである。
だからこそハックの「人間回復」の物語は、読む者に烈々たる感動を惹き起こすのである。全編にみなぎる底抜けのユーモアと相俟って、この小説がアメリカ文学の最初にして最高の傑作と崇められ続けているのも素直に納得せざるを得ない。
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