内野聖陽の熱演から見えた「男らしさの変容」 インテリから乙女なゲイまで演じきる実力派
京都撮影所が舞台。殺陣の技術には才能と定評があるが、セリフがうまく言えないという致命傷を抱え、うだつのあがらない大部屋俳優役だった。妻・水野美紀の尻に敷かれ、友人・中村獅童に檄を飛ばされ、最後は無事に主役を演じ切る。自己主張が弱く、控えめな性格で本番にも弱い。
そんな役を演じた内野は、矛盾するようだが、実に男らしかった。メンタルが絹豆腐くらいヤワでも、妻への敬意と感謝を忘れない。そこ、重要。刀さばきの美しさ、アクションのキレ、ほれぼれする筋肉美だけでも充分に男らしいし、ムッキムキの俺様メンタルは不要と証明した作品でもある。
「男らしさ」を定義しなくてもいい
さらに意表を突いたのが、冒頭で触れた「きのう何食べた?」の内野だった。
しゃべり方から食べ方、身のこなし、頭のてっぺんからつま先まで実にたおやか。フェミニンなのに男らしい。倹約家の西島に甘えたり、元カノに嫉妬したりと大忙しのかしましさ。
その一方で、意固地な西島を包み込むおおらかさ。素直に「おいしい、うれしい、楽しい、大好き」を表現するかわいらしさ。もう何が「男らしい」のか、何が「女らしい」のか、定義がわからなくなった。定義するのもばかばかしくなった。
女性が求める男らしさとは、日常を共にして、さりげなく相手を思いやる力。とどのつまり、人間力という段階まできてしまった。
内野が演じてきた男は、実に時代を反映していると改めて思う。女性のニーズに応えてきた部分もあるし、もしかしたら男性も肩の力が抜けて、気持ちが楽になるのではないか。「男は強くなくていいのだ」と。
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