プロ野球界の”リストラ”を描き続けた男 菊野浩樹プロデューサーが番組に込める思い
2003年、ダイエーが4年ぶりの日本一に輝いた数日後、大越は戦力外通告を言い渡された。その時点で宮地は横浜(現DeNA)、近鉄、ロッテの入団テストを受けたが、いずれも不合格だった。そして11月5日、ふたりは広島市民球場で行われた合同トライアウトで顔を合わせる。だが、ともに再契約を勝ち取ることはできなかった。
地獄からはい上がった宮地と大越
そんな折、野球の神様が宮地に手を差し伸べた。ダイエーの村松有人がFA宣言したため、外野の席がひとつ空いたのだ。宮地は入団テストの末、ダイエーに合格する。翌年途中からライトのレギュラーに定着すると、2005年は開幕戦からスタメンに名を連ねてオールスター初出場、外野でのベストナイン選出とキャリア最高の活躍を見せた。戦力外通告の逆境を跳ね返し、“リストラの星”と大声援を送られるまでになった。
方や、2003年限りで球界を去った大越は高校野球の監督を目指したが、その道のりは決して平坦ではなかった。高校卒業後に進んだ早稲田大学では野球部になじめず、2年時で中退していたため、教員免許を取得するには大学を卒業する必要があった。04年4月、東亜大学に2年生として編入し、3年間スポーツ心理学を学んだ。07年4月に山口県の早鞆高校に体育教師として赴任し、2年間の教員活動期間を経た09年5月、ようやく日本学生野球協会から高校野球指導者として認められる。そして12年、春のセンバツで甲子園初出場へと導いた。
2003年というターニングポイントを経て、それぞれの道に進んだふたりを、菊野は追いかけ続けた。宮地が“リストラの星”として輝いた姿は「ZONE」で、大越の甲子園への道のりは「バース・デイ」で描いた。
「宮地さんは戦力外通告で天国と地獄を両方味わって、番組の象徴のように言われた選手。大越さんもいろいろな形で取り上げさせてもらいました。心に残るふたりです。番組として、一石を投じることができたと思いますしね」
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