マンネリ化した「テレビの笑い」は変えられるか 必要になのは"村の秩序"を打ち破る「異能」

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“テレビ村”の秩序を打ち破るような“異能”なタレントがこの先、現れてくれるだろうか(写真:hanack/PIXTA)  
たけし・タモリ・さんまの「お笑いビッグ3」がいまだ健在であることが象徴するように、イマドキのテレビの笑いに対して、“代わり映えしない”というイメージを持っている人も多い。特定のタレントに依存する“テレビ村”の論理を超えて、新たな人材は現れないのだろうか。

「笑ってはいられない時代」の笑い

私的なことで恐縮だが、筆者は、テレビからさまざまな娯楽を浴びて育ってきた。年齢的には1960年代後半から1970年代、そして漫才ブームの巻き起こった1980年代と、演芸番組やお笑いバラエティーを、かじりつくように見てきた。それは現在も絶賛継続中である。

「『GALAC』2019年5月号の特集は「テレビの笑いが消える!?」。本記事は同特集からの転載です(上の雑誌表紙画像をクリックするとブックウォーカーのページにジャンプします)

しかし、テレビの笑いについて、特に3・11以降、潮目が変わったという声をよく聞く。平成の30年間は災害との闘いでもあり、東日本大震災をはじめとする激甚災害では多くの犠牲者を出し、その後も、“一寸先は闇”ともいうべき社会状況が続いている。

われわれは今「笑ってはいられない」状況にあるのかもしれない。それは、ある意味純粋で知的な人ほど、そうした危機感を強く持っている。元陸上選手でコメンテーター、起業家でもある為末大氏は、今年2月11日に公式ツイッターでこうつぶやいていた。

〈バラエティ番組が残した日本にとって最も大きな弊害は、一生懸命取り組む人を笑うという仕組みを子供の集団にうえつけたことではないだろうか〉(原文ママ)

140字のつぶやきだけでは、具体的な対象や意図がわからないため、為末氏の真意は測りづらい。だからこそ、ネットの世界ではさまざまな臆測が生まれ、拡散する。為末氏はなんらかの番組で「一生懸命取り組む人を笑うようなシーン」を見てそう考えたのであろうが、こうしたつぶやきをリツイートする人たちは、このやや曖昧なテレビ悪玉論に、総じて同意する(筆者からすれば、「論」にもなっていないと思うのだが……)。

笑ってはいけない(いられない)ときに笑えば、その人は「ふざけるな」「不謹慎だ」ととがめられる。それは仕方のないことだ。しかし笑いの基本的なメカニズムは、元来そういうところにあったりもする。

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