マンネリ化した「テレビの笑い」は変えられるか 必要になのは"村の秩序"を打ち破る「異能」
オール巨人は、〈世間に迷惑をかけたという意味ではNG〉としながらも、テレビの笑いはあくまでフィクションであることを強調している。そんなことを今さら……とはならないところが、テレビが置かれている状況を、端的に表している。
タレントにふさわしい「ステージ」を
現場の制作者に取材をしていると、時に思いもかけない言葉を聞くことがある。
「知らない人が、いくら面白いことをやっても、誰も見ないですよ」
バラエティー史に残るであろう人気番組を、何本も手がけた某ヒットメーカーがふともらしたものだ。筆者は心の中で「アナタのような人がそれを言っちゃあオシマイでしょ」と思ったが、やはり今のテレビには、軽重はあるものの「タレント依存」という病が蔓延しているのだと、確信したのだった。
タレントは大事だが、タレントの力で何とかなるという姿勢は、あまりに近視眼的だ。少し視点を変えて言うと、最近「(某局の)女子アナが育たない」というネット記事を見たが、それこそ根本的な勘違いである。
仮に女子アナが育たないとするなら、それは彼女たちにふさわしい番組を用意できていないからである。つまり制作者側の問題なのである。人気者が先にいて、人気者が出れば番組の視聴率は上がるという思考回路は明らかにおかしい。
有名無名を問わず、ある能力を持った広義のタレントを生かすも殺すも、番組次第だ。人気者に任せて安心するのでなく、出演者を生かすステージをちゃんと用意できているのかどうかを真剣に考えるべきなのだ。
タレント選びにしても、現在の“テレビ村”“芸人村”を形成する芸能プロダクション主導のキャスティングが目立つ。知名度だけでない、新たなルートを開拓すべき時ではないか。
例えば、一般に伝統芸能といわれるジャンルに身を置いている人はどうだろう。歌舞伎や能、狂言、そして落語や講談、浪曲、俗曲などに携わる人たちは、1つの「型」を身に付けたうえで、現代との接点をどう作っていくかを真剣に考え、さらに“異能”の持ち主も少なからずいる。
ドラマにおいては歌舞伎役者が活躍し、狂言師では野村萬斎がマルチな才能を発揮しているが、笑いの担い手ということになると、やはり落語家だろう。
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