身分を証明する免許証やカード類、携帯電話などを自宅に残し、山林を歩き回った。この間、会社は欠勤。死にきれずに戻った時には、すでに退職扱いとなっていた。その後は、仕事を探す気力もないまま、引きこもりの状態が続いているという。
自殺が失敗に終わった顛末を振り返るクニミツさんは生気のない表情で、声にも抑揚がない。私が、死ぬのが怖かったですか?と尋ねた時、初めて心外そうな様子を見せ、こう答えた。
「それは、まったくありません。死ねなかった自分が今もこの世にいることが不思議。自分が生きている現実を、まだしっかり受け止めることができません」
物心つく頃から、父親に暴力を振るわれてきた。小学校に入ってからは、いじめに遭った。いじめのきっかけは、クラスで人気のあった女子と仲良くしていたことだったが、クニミツさんに言わせると、それは「誤解だし、言いがかりにすぎない」。
しかし、子ども特有の無邪気な“悪意”をいなすすべを、クニミツさんは持ち合わせていなかった。その後は、「いつも女子を見ている」といった陰口をたたかれたり、クラスメートたちに囲まれて小突き回されたり、靴を隠されたりする日々。いじめは中学を卒業するまで続き、学校生活は「地獄のようでした」。
高校卒業後の希望は、とにかく家を出て、父親の支配から逃れること。しかし、「大学に行くにしても、働くにしても、賃貸物件を借りようと思ったら、親に保証人になってもらわなければなりませんでした」。事実上、残された選択肢は、住み込みで雇ってくれる仕事を探すことだった。
幸い、住み込みの従業員を探しているコンビニエンスストアが見つかり、就職。正社員で、月収は25万円ほど。勤続5、6年が過ぎた頃、福祉施設で働いているという常連客と親しくなったことがきっかけで、福祉の仕事に興味を持った。ボランティアとして施設を訪れるうちに、やりがいを感じるようになり、特別養護老人ホームへの転職を決めたという。
介護保険制度の導入で給与がまさかの半分に
クニミツさんが介護の世界に入ったのは、1990年代半ば。働き始めてすぐに給与は約40万円にまで上がった。しかし、2000年度の介護保険制度の導入を境に、給与は一気に約20万円にまで減った。
「業界では、介護保険制度が始まったら、それぞれの施設が生き残るために経営の効率化を図らないといけないから、私たち職員の給料は下がるだろうとは、いわれていたんです。でも、まさか半分になるとは思っていませんでした」
家族による介護の負担を減らし、社会全体で介護を支える――。介護保険制度の導入前は、そんな理想が喧伝された。一方で、当時、私が取材する限り、同制度がスタートしてから、給与や待遇が上がったという介護職員はほとんどいなかった。一部の株式会社や社会福祉法人などの事業者は福祉用具のレンタルや食事の宅配など事業の拡大・多角化に乗り出す一方で、人件費をカット。無資格、もしくは非正規雇用の職員が急増したのも、この頃だ。
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