資料を通して説明するということは、きちんと説明責任を果たすことでもあります。企業の不祥事などでも説明責任を果たせという批判を、巷間よく耳にしますが、そんな説明責任の大部分は、「謝罪する」という責任を指すか、「辞任する」責任を果たすかのいずれかが多いように思います。でもそれ以前にやるべきことは、何が起こっているかを説明する責任です。
「説明責任」の意味は、文字どおり「説明する」責任です(当たり前です)。そのためにはきちんと中身を正確に伝える能力、誤解が生じないような資料を作成する能力が問われるのだと思います。
そしてもちろん、伝えるべき中身も重要です。でも中身を優れたものにする方法は、私にはわかりません。その答えはつねにオーダーメイドのものだからです。
一方で伝え方というのは形式面での工夫である以上、明確にノウハウはあります。それは聞き手の立場に立つという意識、そしてそのための伝える手間を形式面で惜しまないという努力の問題です。
つまりそれは誰にでもできるということです。誰にでもできることをやらないのは単なる放漫です。
資料をバカにするということは、コミュニケーションをバカにすることだと思います。
プレゼンテーションにおける究極的な目標は、「資料を説明するのではなく、資料に説明させることである」というのを昔先輩に教わりました。私はいまだその意味すら正確に理解できていませんが、その域を目指し、果てない努力を今日も続けています。その代償として資料への形式的なこだわりで、視力もだいぶ落ちてきたわけですが……。
※ 本文は筆者の個人的見解であり、所属する組織・団体を代表するものではありません。
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