そしてその資料作りにおいて、意外と抜けがちで、かつ私が最も重要だと考えているのは、(先ほどこき下ろした)形式的なものへのこだわりでもあります。
すでに使い古された言い回しですが、コミュニケーションにおいて言語情報はわずか7%で、残りの93%を支配するのは、言葉以外の非言語的な要素だそうです。 身体感覚的には、ここまで言語情報の割合は小さくなかろうという気もしますが、いろいろなセミナーや勉強会、あるいはテレビの討論番組を観ていても、話し手の話していた内容は忘れても、やたらに緊張していて頼りなかったとか、甲高い声色で批判に反論していて格好悪いとか、話している内容以前に、そんな人物印象が色濃く残る場合も少なくありません。
ただしよく考えてみると、非言語コミュニケーション向上の努力はしょせん印象操作なので、ここを頑張っても自分をよく見せるだけの話で、結局、話した内容がよく伝わるわけでもありません。非言語領域の努力もそれなりに必要ですが、コミュニケーションの目的は伝えるべき中身である言語情報なので、この言語情報の中身をいかに相手の印象に残すかが、とても重要です。
そういう意味で、ただでさえ印象に残りにくい言語情報で物事を伝えるために、後にも残る資料のわかりやすさにエネルギーを注ぐことというのは、自然の流れだと思います。
わかりにくイケていない資料
それではその資料のわかりやすさというのは、どこから来るのでしょうか。
私は、わかりにくいイケていない資料というのは、内容というより構成やパーツ配置や表現様式といった形式的な部分が、やたらに印象に残るものだと感じています。資料作りの本質というのは、実に細部に宿る部分なのではないでしょうか。
逆に言うとわかりやすい資料とは、まず形式面に心を砕いた資料です。たとえばパワーポイントであれば、同じ意味を持つメッセージは同じ場所に配置する。事実を書く場所はスライド上部、事実から導いた仮説や示唆を書く場所はスライド下部と決めたらそこを動かさない。文字の色や太さ、テキストボックスの大きさを変える場合には、変えた内容にすべて意味を持たせる。時間の流れやプロセスの流れはすべて左から右に書く。などなどTipsはいろいろとありますが、いずれにしても要するにつねに読み手の立場に立った資料です。
イケてない資料は、多くの場合、中身の問題ではなくわかりにくさの問題です。そしてわかりにくさの問題は、読み手の立場に立った作法で大部分は解消できるものです。
それから構成です。結局、試行錯誤の数だけ資料は進化していくのだと思います。資料は多ければよいわけではありません。資料は足し算の論理と思いがちですが、実は引き算の論理です。足していると努力の跡が形になりますが、わかりやすさとは必ずしも比例しません。資料作りの目的は努力の跡を聞き手に示すことではなくて(時たまそういうこともありますが)、その中身を理解し共感し動いてもらうことです。そこにはわかりやすい資料、つまり言うべき内容をいかにコンパクトにして伝えるかという、引き算の論理が重要になると思います。
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