それからは月の半分を東京で過ごすのが日常になった。1日16~18時間働かないとこなせない仕事量に忙殺されてはいたが、そこには生まれて初めて味わう、家庭のしがらみのない自由があった。
自分の意思で好きに使えるお金が手元に残るようになったのもこの頃からだ。リフレッシュのために人生初の海外旅行をし、そこで同じツアーに参加していた日本人女性と知り合い、やがて結婚することになる。年収1000万円の目標は“半上京”して1~2年のうちに達成した。
そして2012年、35歳のときに父の借金を完済する。父の死からちょうど10年後、フリーランスになってちょうど10年というタイミングだった。「これでようやく過去との決別ができた」ということで、記念に自らのホームページで自伝マンガ『トコノクボ』を連載するようになる。評判が評判を呼び、2015年にはマイナビ出版で書籍化された。
この『トコノクボ』には、これまでたどってきた過酷な半生がギリギリまで具体的に描写されている。イラストレーターとしてのサクセスストーリーを読もうとすると、家庭のドロドロも同時に流れ込んでくる。「けっこう露悪的」だと自嘲するが、そこには確固たる戦略がある。
唯一の人間だということが伝わってくれたら…
「自分と似たタッチの絵が描ける人なんてゴマンといるわけで、そこで仕事をもらおうとしたら他者と区別する情報を提示しないといけません。そのために自分の経験を伝えていこうと考えました。自分とまったく同じ経験をした人はまずいない。こういう経験をしてきた唯一の人間だということが伝われば、『この榎本よしたかという人間に注文してみよう』ってなるかなと思ったんですよ。
せっかく知ってもらうためにホームページを立ち上げても、変にパーソナルな部分を隠すと、『この人に仕事を頼んで本当に大丈夫なのかな……』と相手を踏みとどまらせてしまう。安心して依頼してもらえるというのはすごく重要ですから」
仕事をもらうための自伝だから、自己満足にふけることもないし、無駄にすべての要素をさらけ出すこともない。持病のことにマンガで触れていないのも、隠しているわけではなく、特に受注にプラスになる情報ではないと判断したためにすぎない。
「もう20年以上もトゥレット症候群ですから、人前で発作が出ても今更何とも思わないです(笑)。自分でコントロールできないものはコンプレックスを抱いても仕方がないですからね。世に知られていない病気なので「こういう難病があるんですよ」というマンガをいつか描こうと思っていますが、それは公の利のためであって、自分のアイデンティティを紹介する意味ではいらないと判断したんですよ」
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