42歳「法廷画」でとことん際立つ男の波乱万丈 「絵で食べる」ためやれることをやり尽くした

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しかし、自衛官の友人が、海上自衛隊の二等海士は満期の3年間を勤め上げれば退職金が120万円が手に入ると教えてくれた。生活費を稼ぎながら学費の心配もしなくて済む道はそれしかない――そう思い3年間自衛隊に勤めながら通信大学で学ぶ計画を立て、深夜の自由時間を体力づくりと学術試験の勉強に充てるようになる。

その結果、2001年に二等陸海空士及び曹候補士の試験を受けて合格。転職を決意したが、そのタイミングでアメリカ同時多発テロが発生する。時の首相がアメリカ大統領の宣言する「テロとの戦い」をいち早く支持したことで、自衛隊参戦の可能性がにわかに高まった。

「もし入隊中に戦争になったら……。自分は自衛隊員として戦うだろう。けれど、それで通信大学の勉強ができなくなるのでは本来の目的から乖離してしまいます」

悩んだ末に根幹に立ち返り、入隊を辞退。学費が給料で払えないのならばフリーランスになってから稼いでやろうと決意する。

フリーに転身後、法廷画の依頼が舞い込む

そうして、家具メーカーを退職して、晴れてフリーランスのイラストレーターになったのは2002年の10月、25歳のことだった。

担当していたプロジェクトが終了し、社内の引き継ぎも終え、寝たきりとなった父が食道ガンで亡くなったタイミングだった。もう治療費はかからない。しかし、死後も父の借金は残ったし、今度は祖母が介護される身になった。なおも家族の鎖が重く縛り付けるが、前に進むと決意した。借金返済と大学の学費、家族の扶養と自分の生活費をあわせて月35万円は必要だったこともあり、「とりあえず会社員時代の倍、年収500万円を目指しました」。

つてはほぼゼロだったので、営業活動は思いつく限り何でもやった。自分のホームページにはさまざまなタッチの自作イラストを載せ、地元の出版社や印刷会社を回り、コンテストへの応募やイラストサイトの登録もした。

努力のかいあって、数カ月経った頃にはちらほらと仕事の依頼受けるようになったが、それでも月収は10万円程度。足りない分はCADオペレーターの派遣業でまかない、どうにか一家を破綻させずに支えた。

法廷画の依頼が地元のテレビ局から舞い込んだのは、フリーになった翌年の夏のことだ。

和歌山地方裁判所で開かれる元和歌山市長の公判があり、その日の夕方のニュースに使いたいという。それまで担当していた法廷画家が高齢で引退したため、地元で活動しているよしたかさんに声がかかった。公判は午前から2時間半。その後数時間で2~3枚の絵を着色するなどして急いで仕上げて納品。すると、その2時間後にはテレビの全画面に自作の法廷画が映し出されていた。

テレビ局からの依頼も裁判の傍聴も初めての経験だったが、法廷画は自分に向いていると思った。

「法廷画は時間勝負で、見たものを見たまま素早く描くスキルが求められます。僕が積み重ねてきたものとマッチしていると思いました。凄惨な事件の公判には気が滅入ることもありましたが、数をこなして事件と心の距離を保つことを覚えました」

次ページ地元や関西で大きな公判があると法廷画の依頼が届くように
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