日本人が「悪い伝統」も残したがる残念な理由 ルールを変えたい人ほど日本では生きづらい
タチが悪いのがCだ。実はそれほどその伝統へのリスペクトはないが、これを持ち出せば相手は反対しづらいので、方便として伝統を持ち上げている。これが、「社会制度」などの大きな枠組みや個人の心の内面にまで関わってきて、「日本古来の伝統を変えるな」「日本人は昔からそうやってきたのだから従え」「伝統的な文化・しきたりを絶やすな、守れ」となると、やっかいとか面倒の域を越えてしまう。
緩やかな衰弱まねく「前例踏襲」
こんなふうに近視眼的に、あるいは自分に都合がいい面だけを見て、「伝統を変えるな、従え、絶やすな、守れ」という人たちに対し、いつの時代も「変えたほうがいいんじゃないか」という変革者は現れる。もちろん、それに抵抗する人たちがいる。もうこの世にいない先人たちは何も言わないが、変革者のすぐ上位にいる先輩たちが、待ったをかけるのだ。「俺の目の黒いうちは変えさせん」というアレだ。
その気持ちは、まあわかる。自分たちが信じ、守ってきたナニカが否定されたように感じ、それは自分という人間を否定されたようにも思うのだろう。場合によっては、自分たちの地位が脅かされることになるかもしれない。
そこで、背負った先人たちの逆ピラミッドを使い、いかに変えてはいけないかを力説し、変えることによる危険性を訴え、圧力をかける。言い方は悪いが、既得権益と権威の維持と保護だ。
日本の組織(とくに官僚機構)はこれが多い。前例踏襲で、変わらないことが第一の目標。「なにもしないことのためにはなんでもする」という、なんだか不思議な労力をいとわない。これは一見、現状維持だが、言い方を変えれば、ゆるやかな衰弱だ。ひょっとしたら、これこそが日本の伝統なのかもしれないが。ところが、抵抗勢力はそこだけでなく、意外なところからも現れるのだ。
さっき、「伝統を大切に思い、それを周囲に伝える人」の4パターンで、Bの人たちについて、「変えてはいけない」と伝統原理主義的になり、周囲にも強制したがる、やや信心みたいになってくる、と書いた。Dのライトユーザーに対し、ヘビーユーザーだ。その伝統を愛するいちばんの応援団といえる。実はこのBの人たちが、変革に難色を示すのだ。
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