日本人が「悪い伝統」も残したがる残念な理由 ルールを変えたい人ほど日本では生きづらい
だが、これはあなた(読者)が受け手だからだ。もし伝承者だったら、どうだろう? 例えば、学校の運動部の部活。新入りはたいてい、先輩のしごきにあう。「グラウンド100周だ!」「腕立て伏せ300回!」など、体力的に無茶なことを言っているケースも多い。合理的に考えると、あまり意味のなさそうなものもある。
体育会系に蔓延する「伝統マウンティング」
下級生は先輩に逆らえないので、しかたなくやる。体力作りが半分、あと半分は精神論や根性論であることはわかる。だから、それが全部できなくてもいいということもわかる。できないことが織り込み済みの課題なのだ。
いやむしろ、できてしまってはいけない。「言われたことが全部できなかった」という事実で、新入りは先輩より劣った存在だという関係性を構築したいのだ。つまりこれは、マウンティングだ。
やらされながら、新入りたちは、「俺たちが上級生になったら、こんな意味のないことはやめような」なんて言いあう。しかしいざ自分が上級生になると、たいてい後輩に、「これがウチの部の伝統だ!」と、それをやらせているのだ。体育会系の部活あるあるだ。今度は、あなた(読者)が 伝承者の位置にいる。
意味がないと思っていても、理不尽だとわかっていても、「これが伝統だ」と言えば下級生を従わせることができる。なにしろ自分の背後には先輩逆ピラミッドが控えているのだ。たまに能力の高い新入りがいることもあるが、これなら怖くない。
こういう構造は部活だけでなく、企業でもある。スパルタ式の新人研修などがそうだ。「社風」という名の「会社の伝統」をまとっていても、その実は「伝統マウンティング」だ。組織ではない師弟関係でもある。一見、師匠―弟子の1対1の関係に見えて、実は師匠は背後に大師匠の逆ピラミッドを背負っているのだ。この伝統が好きである、大切である、必要である、盲信している人の「伝統マウンティング」は、時にうっとうしいが、まあ、ほほ笑ましくはある。
一方で、この伝統は別に好きでも嫌いでもないが、これを持ち出せば言うことをきかせることができるから、という人の「伝統マウンティング」もあるのだ。こっちにはほほ笑ましい要素はなく、たんにうっとうしいだけだ。
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