NYで飴細工職人として生きる彼女のこだわり

ディズニーという憧れの職場を捨てたワケ

29歳の時、新聞に挟まれていた冊子をめくっていたCandy5さんは、ある記事を見て、「これが答えだ!」と確信したという。そこに掲載されていたのは、飴細工職人のインタビュー記事。「父からのメッセージに違いない」と、すぐに編集部に電話をして、大阪の飴細工職人に会いに行った。

その後、めぐりめぐって、当時80代だった東京の飴細工職人・木村武雄氏の弟子となる。1週間、師匠のもとに通い、朝から晩まで練習を重ね、基本の十二支の飴をマスター。十二支以外は、飴の袋詰めをしながら、師匠の技を盗んで覚えた。

90度に煮えたぎる飴を素手で扱うため、いつも手には水ぶくれ。毎日7時間以上も何百本、何千本と飴を作り続け、突然「感覚がつかめた」と感じたのが、2年目。それからは、面白いほど自由自在に飴を操れるようになった。Candy5さんはその感覚を「宇宙とつながった」と表現する。

フロリダのディズニーで活躍

史上初の女飴細工職人として、東京を拠点に全国を飛び回る日々。彼女をつねに苦しめていたのは、富山の母親に預けていた長女のことだった。「寂しい思いをさせている」という罪悪感。周りからも「離婚して、娘に寂しい思いをさせて、自分は好きなことをするなんて、親として身勝手すぎる」と非難されたが、飴細工職人をやめるつもりはなかった。ただ、「娘と一緒に暮らしながら、飴細工職人として、娘を大学に行かせられる収入を得たい」と、天に向かって祈り続けた。

そして、1996年12月、Candy5さんはフロリダに向かう飛行機に乗っていた。「フロリダのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートが、日本人の飴細工職人を探している」ということで、トントン拍子で話が決まったのだ。ディズニーのエプコット・日本館でパフォーマンスを始めたCandy5さんは、たちまち来場者の人気者となった。

エプコット・日本館にて(写真:Candy5さん)

しかし、順調だったキャリアは、2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロの1カ月後、米国経済の落ち込みによる解雇という形で、突然終わりを告げた。ビザを保持できなくなり帰国を迫られるが、当時中学生だった娘は「フロリダに残りたい」。愛娘の主張を尊重したCandy5さんは、学生ビザを再申請してフロリダに残った。職を失ったものの、「とにかくキャンディーを作り続けよう」と決意。難病の子どもとその家族のための施設「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」(フロリダ)で、ボランティアとしてキャンディー・パフォーマンスを続けた。

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