優しくしてほしい人が冷たい場合の対処法 「思いやり派」よ、上から裁くな!

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思いやり派の「人を裁く姿勢」

私はこういう「思いやり派」の人を見下す視線、キリスト教的に言えば「人を裁く」姿勢に対して、ずっと猛烈な反発を覚えてきました。私は、あなたのご主人の態度に賛成はしませんが、ある程度同じように「反応」するかもしれません。私だったら、バスに乗り込むときに、すぐに子供を抱っこしますが、「誰も席を譲ってくれなかった」というあなたの苦情に対しては、ほぼご主人と同じように、「席を譲ってくれと言えばいいじゃないか」と答えるかもしれません。私は、どちらかというと苦しそうな他人をすぐ助ける人間ですが、それは他人の苦痛を見て忍びないからではなく、そのほうがずっと自分にとってラクだからです。

30代半ばに4年半、その後10年経ってから8カ月ずっとウィーンに住み、さらにその後もウィーンに借家を持って年に2カ月くらい15年間住んだ長いヨーロッパ体験もあるかもしれません。(今はかつてほどではないにしても)ヨーロッパでは20歳くらいから60歳くらいまでの男は、「まとも」と見られたいのであれば、一歩家を出るや否や、見ず知らずの他人(特に女性や老人)をあれこれ助けなければなりません。席を譲ることは当然であり、私のような貧弱な体で体力もない男ですら、重そうな荷物を持っている老人を見つけたら運んであげねばならない(特に電車の乗り降りの際、網棚に上げるときや降ろすとき)。レストランの扉を開けてあげねばならない。そして、彼らも当然のごとくそれを受け入れる。そして、今や私もどこから見ても老人なので、バスでも市電でもすぐに席を譲られ、乗り降りの際には左右から手がさっと伸びて荷物を持ってくれます。私も「ここはこういう文化なのだ」と思いながらも、そのたびにうれしくなります。

しかし、こうした態度は、必ずしも深い道徳に基づいているわけではありません。ウィーン大学の学生の頃、若い男子学生たちに「大変じゃない?」と聞いてみたのですが、「体が自然に動くだけ」という答えが多かった。そして、多くの学生は別に弱者に対する特別の「思いやり」があるのではなく、強い者が弱い者を助けることは、合理的だからにすぎないのです。

このあたりで、今回のご相談に戻りますと、私はどんなに困っている弱者でも、「あなたは私を助けるべきだ、そうでなければ、あなたはまともな人間ではない」という視線を、すなわち私を「裁く」視線を感じたとたんに、助けたくなくなります。でも、私は助けます。軽蔑と嫌悪の気持ちを少々込めて。ヨーロッパにはまだ乞食がいるのですが、私がたまたまおカネをあげるときでも、やはり「軽蔑と嫌悪の気持ち少々込めて」そうします。なぜなら、今、苦しんでいる弱い人々は、具体的に自分のその苦しみが軽減されればいいのであって、「心から」その苦しみを察してくれることまでを望む権利はないからです。

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