前々回のコラムに引き続き、選手会と経営者側との話し合いも平行線のまま9月に入り、選手会が打ち出した「合併の1年間の凍結と12球団の存続、2005年からの新規球団参入」も妥結に至らず、選手会はついに日本プロ野球史上初の行動を起こすことを決めます。
ストライキでした。
これを決める直前の交渉に、私は北海道での試合のため参加できず、当時の選手会長であった古田敦也氏と在京球団の選手会長が交渉に臨んでくださいました。
結果は電話連絡待ちで、私は試合中でしたが、交渉のことで頭がいっぱいで、集中できなかったと記憶しています。
そしてこの試合中に交渉の結果が伝えられ、翌日から2日間(2004年9月18〜19日)、ストライキを敢行することが決定されたと聞かされました。
野球協約にも記載があるのですが、ストライキ中は「野球活動休止一日につき、300分の一を減俸することができる」。つまり、この2試合分は無給というわけです。
むろん球団からの資金も出ませんし、球場も使うことができない状況。しかしこの2日間でなにができるのかを選手会で考えた結果、各球団選手会でサイン会や握手会など、ファンと触れ合える時間をつくり、私たちと一緒に戦ってほしい、という気持ちを伝えることにしました。
その後、9月22と23の両日に3度目の団体交渉が行われました。
結果的に、近鉄とオリックスの合併を止めることは残念ながらできませんでした。
ですが、12球団の存続と新規参入チームの参加審査を行うという、経営者側からの譲歩案を勝ち取ることができたのです。
まさにこれは「勝ち取った」というのにふさわしい結果でした。
今でも2リーグ制で12球団が存続していることの重み
選手会の思い、そしてなによりファンの皆さんの思い。そういった熱いものの力が、巨大な船がまさに切ろうとしていた舵を元に戻してくれ、14年経った現在のこのセ・パ2リーグ制の12球団が存続している。当時、当然のことながら、SNSなんてものは存在もせず、すべての活動が口コミだけに頼るような状態でした。
応援してくれたマスコミも、そうでなく家まで昼夜関係なく押しかけてきたマスコミもおられました。
この一件で、私は激しく疲弊しました。
しかし、それでも今のこの球界を見渡して、ああ、あのとき一緒に戦ってくださった方がたくさんおられたから、こうして今のプロ野球があるのだと、感謝の気持ちに震えるときが今でも、あるのです。
続きはまた、次回に。
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