「闘う独創研究者」西澤潤一博士が逃した大魚 「ミスター半導体」の功績を振り返る
1959年4月、グールドも、レーザーの特許を出願した。先発明主義である米国では、当然、グールドの研究ノートのほうが優先されるはずだ。
ところが、米国特許庁はグールドの出願を却下し、1960年3月、シャウロウとタウンズに米国特許2929922としてレーザーの特許を与えた。ここから28年にも及ぶ長く複雑な特許係争が起きた。
1964年、タウンズは、ソ連のニコライ・バソフ、アレクサンドル・プロホルフと共にレーザーの研究でノーベル物理学賞を受賞した。これでタウンズに有利になったかに見えたが、裁判は延々と続き、最終的にシャウロウとタウンズの特許権は否定された。
1987年11月、グールドは、米国特許4704583「反転分布生成のために衝突を採用した光増幅」として、あらためてレーザーの特許を自分のものにした。そしてグールドはレーザーの特許使用料を手中に収めたのである。
ここで先ほどの西澤博士が恩師の渡辺博士と連名で、半導体メーサーの日本国特許出願した年月をもう一度みてほしい。1957年4月だ。ゴードン・グールドが研究ノートに記した1957年11月よりも先なのである。
もし西澤博士が米国特許の申請をするか、学会誌に執筆していれば、レーザーの莫大な特許使用料を手中に収められたかもしれないのだ。
光ファイバーの特許出願と特許庁との係争
西澤博士は1962年に東北大学電気通信研究所教授となった。
1964年、光通信用の集束性光ファイバーの特許を出願した。ガラスのファイバーの屈折率を中心で大きくし、周辺に行くにしたがって、徐々に落とすことで、光をガラスのファイバー内部に集束させ閉じ込め、外部への漏洩を防ぎ、通信効率を上げる技術である。
ここで問題になったのが、西澤氏が特許申請専門の弁理士を使わず、全て自分で書類を書き上げたことである。書類不備、書式不備として、何度も却下され返戻の扱いを受けた。やっと特許出願公告が出ると、異議申し立てが出た。拒絶査定ということで、裁判に持ち込み、地裁、高裁で争われることになった。
特許庁との係争は続き、1984年には期限切れとなった。弁理士を使えば、そこまでもつれることはなかったようにも思われるが、あくまで自分の特許の書類は全て自分で書くという、いかにも西澤博士らしいこだわりと思い入れが感じられる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら