薩摩藩が「幕末最強組織」になった特異な理由 藩内には「徳川とは対等」という意識があった
謎1 なぜ大量の兵士を維持できたのか
第1の謎を解き明かすためには、まずは薩摩藩ならではの特異性をみる必要がある。薩摩藩は、鎌倉時代から続く名門・島津家が治めてきた。始祖の島津忠久は鎌倉幕府・初代将軍源頼朝の庶子だったという伝承もあり、江戸300藩の中でも飛び抜けた名門だった。
島津家は関ヶ原合戦後に徳川家に仕えた外様大名だが、徳川家に屈しなかったという“誇り”があった。関ヶ原の戦いでは敵側の西軍に属したが、大胆な敵中突破で武名を高めた。徳川家康は島津征伐を検討したが断念し、最終的には西軍でありながら取り潰されず、それどころか所領が安堵されるという特別待遇を受けた。こうした経緯もあってか、薩摩武士には「徳川とはあくまで対等の関係」という考えがあった。
島津家は引き続き九州南部を治めることになったが、それゆえに戦国以来の体制や習慣が根強く残った。江戸時代の日本には士農工商という身分制度があり、兵農分離で武士層と農民層が明確に分かれていた。武士層は人口全体の7〜10%で、多くが城下町に住んでいた。
ところが、薩摩藩の武士階級は、人口比にして何と30%近く。他藩に比べるとはるかに高い数値である。これは藩内に「徳川とは対等」という独立意識があり、「何が何でも領土を守る」という意識が働いていたからだと考えられる。いざというときに対処できるよう、常に大兵力の維持に努めていたのだ。
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