薩摩藩が「幕末最強組織」になった特異な理由 藩内には「徳川とは対等」という意識があった

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とはいえ、火山灰地に覆われていた薩摩藩領の生産高は低く、表高(所領の表向きの石高)は77万石だったが、実質石高は30万〜35万石だった。しかも参勤交代では藩主が薩摩と江戸を往復しなければならなかったので、通常のやり方で大兵力を養うのは難しかった。そこで、領内の村々に自給自足の「外城士(とじょうし)」と呼ばれる郷士身分を大量に配置した。

彼らは家禄がなくても年貢免除や苗字帯刀などの武士特権を与えられたので、藩主に対する忠誠心も厚かった。彼らは武士であることを誇りに思い、武士としての自覚から日々の鍛錬も欠かさなかった。剣術修行にも熱心で、平和が続いたことで軟弱化した他藩の武士とは対照的だった。

薩摩藩は年貢免除や苗字帯刀など、武士にとってはこれ以上ないインセンティブを与えた。その結果、普段は農作業をしている下級武士たちもモチベーションを保ち続けられたのである。

(学びのポイント)年貢免除や苗字帯刀などの武士特権がいわばインセンティブとなり、モチベーションの高い戦力を大量に維持できた

(教訓)金銭以外のインセンティブが組織の結束を強くする

謎2 なぜ有能な人材が輩出されたのか

幕末に活躍した薩摩藩士は西郷隆盛や大久保利通だけではない。家老の小松帯刀、勝海舟から「薩摩では大久保利通に次ぐ傑物」と評された村田新八、「人斬り半次郎」と呼ばれた桐野利秋など、さまざまな人物が活躍している。また、第2代内閣総理大臣の黒田清隆、日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎、実業界で活躍した五代友厚など、明治期にも多くの薩摩人が活躍した。

薩摩出身のリーダーは、大事な場面で常に適切な判断を下してきた。なかには藩校でエリート教育を受けた者もいたが、藩校で学ばなかった下級藩士出身のリーダーも多い。現に西郷や大久保などは下級藩士の出だが、リーダーシップを発揮するための判断力や実行力、決断力はずば抜けていた。

こうした人材を輩出することができた背景には、「郷中(ごじゅう)教育」という薩摩藩独自の教育システムがある。

鹿児島城下における家臣の居住地域は家格によって区分され、それぞれの町で「郷中」と呼ばれる少年たちのグループがつくられた。「稚児(ちご)」と呼ばれる6~15歳ぐらいまでの少年たちが集まり、「二才(にせ)」という15〜24歳の年長武士が教える。郷中教育には“教師”が存在せず、先輩が後輩を教育しているのだ。

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