薩摩藩が「幕末最強組織」になった特異な理由 藩内には「徳川とは対等」という意識があった

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どんなことを教えるか、誰から学ぶかは子供たちの自由で、決まった学び場もない。子供たちは早朝に好きな先生の家を訪ね、儒学や書道などを学んでいる。さらに川遊びや相撲、武芸などにも励み、身体を鍛える。学んだ後は子供たちだけで集まり、車座(くるまざ)になって、その日学んだことをひとりずつ口頭で発表する。これによって知識が共有され、話す本人も口頭で伝えることで復習になる。

藩校ではテキスト重視の教育が行われるが、郷中教育では会話が重視される。ときには熱い議論になることもあるが、こうした口伝えの教育が実践的な力につながり、テキストだけでは身につかない決断力や実行力、判断力が身につくのだ。

郷中で一緒に過ごす時間が長いので、同じ郷中で育った者の絆は深くなっていく。その一方で、年長者に従う意識も強くなる。その結果、目上の者の命令には異議を唱えることなく黙って従うという独特の気風も生まれた。

(学びのポイント)薩摩藩独自の教育制度「郷中」で育まれた実践的な力が、薩摩からの有能な人材の輩出につながった

(教訓)教える側と教わる側という固定的な関係ではなく、むしろ仲間同士で学び合うことで組織が成長する

謎3 なぜ産業近代化にいち早く成功したのか

8代藩主の島津重豪は藩財政を悪化させた張本人だが、薩摩藩の近代化の礎を築いた人物でもあった。藩校の造士館を設立して教育の普及に努めたほか、明時館(めいじかん)という天文学の研究施設や漢方を学ぶ医学院も建てた。書物の編纂にも取り組み、薬草を研究した『質問本草』や農学書の『成形図説』、中国語を研究した『南山俗語考』などを刊行した。また、重豪自身も「蘭癖(らんぺき)」の異名を持つほど蘭学に興味があり、自らオランダ語を習得したり、来日したシーボルトと会見して西洋事情を聞いたりした。

こうした重豪の“洋学かぶれ”は、曾孫で11代藩主の島津斉彬(なりあきら)に受け継がれた。列強諸国の脅威を敏感に受けとめていた斉彬は外国の先端技術を導入し、軍事と産業の近代化にいち早く取り組んだ。

鹿児島郊外にはアジア初の近代的洋式工場群を建設し、大砲の製造や洋式帆船の建造、武器弾薬や食品の製造、紡績事業やガス灯の実験などを行った。これらの事業は工場群の名称にちなんで「集成館事業」と呼ばれ、のちの明治維新期に活躍する人材も育てた。

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