「子どもの時はずっと絵を描いてましたね。裏面がザラザラの広告チラシの紙がお気に入りで、両親が用意してくれました。幼稚園の頃、テレビで『マジンガーZ』を放送していたんですが、カッコいいシーンを書き留めたくて、再現したくて、テレビの前に座って描き続けていました」
当時はアニメ雑誌や設定資料集などはなかったので、とにかく記憶の中で組み立てて再現しなければならなかった。もちろん幼稚園児が画力を上げようなどとは思っていなかったが、結果的に鍛錬になった。
ただ、小田さん美術の道に進もうとは高校まではまったく考えていなかったという。
高校受験の失敗で美術に出会う
はじまりは、高校受験の失敗だった。
当時の三重県には高校入試で学校群制度という入試実施方法が導入されていた。いくつかの学校で群れを作り、学力が平均になるよう合格者を振り分ける方法だ。
つまり高校入試に合格しても、自分が行きたいと思っている学校に行けるとは限らない。行きたい学校に行けなかった人は、かなり理不尽さを感じるシステムだった。現在はすでに廃止されている。
「結果的に行きたくないほうの学校に受かっちゃったんですね。山の上にある新設校でプールもない。先生も『勉強しろ!! 歴史のある学校に負けるな!!』なんて頑張っちゃってる。行きたい学校に行けなかったという挫折感が残りました。僕はそういうのうまく切り替えられるタイプではないんですね」
進学校に通っていても、勉強することに意欲が持てなかった。
その代わりに美術部に入って打ち込んだ。
早朝学校に行き授業前に描く。昼休みも描く。放課後もギリギリまで描いていた。これを毎日続けた。
「美術部に打ち込みすぎて、学校の授業はグダグダになってしまいました(笑)。結果的には望まない学校に行ったおかげで、美術に出会い、恩師にも恵まれました。
美術はひらめきや瞬発力ではなく、学術的にメソッド(方法、方式)を覚え積み上げていくことで作られるんだと理解しました。それからは頭の中にある“すごいこと”を段々とアウトプットできるようになってきました」
美術部に入った当初は美大への進学は考えていなかったが、1年生の途中くらいで東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を目指すことにした。
「このまま勉強するのは嫌だなっていうのがありました。普通科高校の美術部だったのですが、OBには2人東京藝術大学に行っている人がいて、OBとのグループ展の際に話が聞けたのもよかったですね」
東京藝術大学は狭き門だ。当時の油画学科は倍率が約35倍だった。2000人以上が受験して合格するのはたった60人しかいない。小田さんも1年目は不合格だった。
「先生に浪人は東京に行ってやったほうがいいよって言われて引っ越しました。高円寺に住みながら美術予備校に通いました」
そして2年目の受験で見事合格した。
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