社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感 「謝りすぎ」が示す日本社会の息苦しさ

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神戸市の広報課に問い合わせたところ、「すべての職員の処分について同様の形で発表している」という。「ご迷惑をおかけした(納税者である)市民に対し、お知らせする意味合いがある」と説明するが、その一方で、ホームページでリリースを掲出するなどして、直接、その市民に謝罪するわけでもない。前例に従って、メディア向けの会見発表を営々と続けてきたという。

こうした謝罪会見を開くのは本来、被害者に対する反省や謝罪、今後の対応策について表明することが目的であるはずだ。しかし、後々非難されることがないように、とりあえず、メディアに対して謝っておこう、といったアリバイ的なパフォーマンスのような会見も少なくない。

些末な粗相であっても、針小棒大、揚げ足取りのように会社を責め立てるメディアも少なくないからだ。企業としても「とりあえずメディアに発表しておこう」という思考になるのは致し方ないかもしれないが、市民への告知というよりは会見という儀式が目的化している印象もぬぐえない。

「迷惑」恐怖症

このように「過剰感」のある日本の謝罪文化。その背景の1つにあるのが、日本人の過度な「迷惑」恐怖症だ。この3つの事案すべてに共通した謝罪の言葉は「ご迷惑をおかけして申し訳ない」という常套句だ。つまり、被害者に対する謝罪というよりは、不祥事によって、不快感を持つであろうすべての第三者に対しても謝るべきである、という日本独特の考え方がある。

東京理科大学の奥村哲史教授らの研究では、アメリカ人の学生が1週間に謝った回数は4.51回に対し、日本人の学生は11.5回も謝っていた。この研究では「謝罪は、アメリカでは責任の所在を明らかにするためのものであるのに対し、日本では、反省を表すためのもので、自らがかかわっていない行為に対しても謝るのが特徴的。謝罪は(日本という閉鎖的社会の中の)一種の社会的潤滑油」と結論づけられた。

不祥事会見で、いやというほど多用されるこの「迷惑をかけてすまない」という言葉は、人様に迷惑をかけてはいけないという日本独特の価値観の表れであると同時に、その裏には、迷惑はかけられるのも嫌だ、という精神性が隠されている。そもそも、人は本来、生きている限り、誰かに迷惑をかけ、かけられる存在のはずだ。しかし、日本では、迷惑はかけてはいけないという意識の一方で、相手の迷惑も一切、受け入れない「不寛容」が生まれている。

「迷惑」を過剰に恐れ、つねに人の目を気にして、一挙手一投足に過敏にならざるをえない。行き過ぎた謝罪の根っこにあるのは、こうした日本社会の集団的抑圧、同調圧力だ。とりあえず、謝っておこう。「謝罪の安売り」はそんな日本の息苦しさの象徴でもある。

謝るべき時は、肝を据えて、真摯に責任を認める潔さはもちろん必要だろう。一方で、そもそも、リスクや間違いを過度に恐れる「リスク回避志向」の強い日本人が、ますます縮こまり、内向きに走る現状もどうかと思えるのだ。

「謝罪」はある意味、同質的な日本人同士の独特の「折り合い方」の知恵なのかもしれないが、グローバル化で、価値観が多様化する中で、誰かの常識は違う誰かの非常識ということも増えている。「とりあえず謝罪」だけで片付く時代ではないのである。

岡本 純子 コミュニケーション戦略研究家・コミュ力伝道師

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おかもと じゅんこ / Junko Okamoto

「伝説の家庭教師」と呼ばれるエグゼクティブ・スピーチコーチ&コミュニケーション・ストラテジスト。株式会社グローコム代表取締役社長。早稲田大学政経学部卒業。英ケンブリッジ大学国際関係学修士。米MIT比較メディア学元客員研究員。日本を代表する大企業や外資系のリーダー、官僚・政治家など、「トップエリートを対象としたプレゼン・スピーチ等のプライベートコーチング」に携わる。その「劇的な話し方の改善ぶり」と実績から「伝説の家庭教師」と呼ばれる。2022年、次世代リーダーのコミュ力養成を目的とした「世界最高の話し方の学校」を開校。その飛躍的な効果が話題を呼び、早くも「行列のできる学校」となっている。

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