
定年後、会社から離れて急に暇になると退屈を感じ、中には不安にすら襲われる人もいるだろう。この「退屈」や「不安」の本質を突き詰めたのがドイツの大哲学者、マルティン・ハイデガーだった。彼の主著『存在と時間』や『形而上学の根本諸概念』などにおいて、とくに「根本気分」を深く研究する学習院大学の陶久教授に解説してもらった。
「浅い退屈」と「深い退屈」
──退職後のシニアは退屈を恐れ、「きょういく」(今日行く所)と「きょうよう」(今日の用事)を求め続けます。ハイデガーは退屈をどう定義したのでしょうか。
例えば、電車を待つ羽目になり手持ち無沙汰になるなど、直接的に何かに退屈させられること、あるいはあの会食は実はつまらなかったと、後から感じる空虚さ。これらはいわば「浅い退屈」だ。
これに対してハイデガーが「深い退屈」として挙げたのが、休みの日に散歩をしているときなどにふと感じるような退屈。理由がわからないけれども、そこはかとなく感じる気分。あらゆるものが色あせて、すべてのものが興味を引いてくれない。普通ならあれが好き、これが嫌いと、物が遠近をもって現れるけれど、すべてがのっぺりした感じになる。あらゆるものが自分を刺激することなく、自分の思いどおりにならないような状態に引き渡される。何かに呪縛されているようで、その感覚から逃れられない。そういったものだ。
──深い退屈は、なぜ湧き上がってくるのでしょうか。
ハイデガー曰(いわ)く、それは人間が将来、既在(過去)、現在といった時間において生きているからだ。
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