そして最近感じるのは、共働きでも、外部の力(家事代行など)を使わずに、この「日本の専業主婦力」水準を目指し、時に実現している驚愕家庭があるということ。いや、すばらしいとは思うんですけど、それ、あまりに頑張りすぎじゃない?
どうしてどんどん豪華になるのか
どうして、このように家事水準は果てしなく高くなってしまうのだろうか。佐光紀子『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(2017年、光文社新書)は、毎日掃除をする家庭、毎食食器を洗う家庭が国際比較上でも日本は多いことを取り上げ、「誰も来ないとしても」「きちんと」しておくことが浸透していることを指摘している。
これは、佐光氏が指摘するよう、1つは「親世代からの水準の引継ぎ」が原因であると考えられる。私の知り合いのあるワーキングマザーは、夫共々フルタイムで仕事をしながら2人の子どもを育てているにもかかわらず、専業主婦だった母親に、毎日掃除機だけではなく雑巾がけもするように言われ、それを守りつづけているという。実母の呪縛というのは内面化されるから、直接監視されなくても「やらないと罪悪感みたいなものが出てくる」。おそろしや。
これに加えて、誕生日パーティのような「もてなし」ものは、呼ばれたパーティが豪華だと、自身が招く際も水準を上げねば、となりがちだ(親がレベル差を気に留めていなくても、子どもが「〇〇ちゃんちみたいのがいい!」となるので「うちはうち、よそはよそ」の説得が大変)。
専業主婦同士で、特に夫の会社のつながりがある場合などは、相手に「失礼に当たらないように」、横並びを気にする雰囲気もあるかもしれない。以前、ドラマ『半沢直樹』で銀行員の妻を演じた上戸彩さんが、同じ社宅に住む夫の上司や同僚の妻たちの序列に気をつけながら、会話をするシーンがあった。20年近く前の話だが、銀行員の妻として専業主婦生活をしていたある友人は、地方勤務時の妻の集まりについて「あのドラマの世界そのままだった」と話していた。ロイヤルコペンハーゲンのカップは高級すぎる、かといって安物では失礼……と、使うのに適切な食器のブランドまで決まっていたとか。
佐光氏もSNSなどの影響を指摘しているが、承認欲求の現れという側面もあるかもしれない。家事という普段あまり評価されない仕事をしている中で、キャラ弁、パーティなど「インスタ映え」する家事の水準が上がっているのでは――。
実は、家事の水準が上がり「主婦が暇にならない」現象については、万国共通の長期の傾向として長らく指摘されている。工業化以降、さまざまな家電が発明され、便利になっているにもかかわらず、家事時間は大して減っていない。この現象は、技術革新がむしろ家事量を増やしているように見える「家事時間のパラドックス」として国内外で社会学者らが研究している。
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