“無名”からドラフト1位候補に出世した男 富士重工、東明大貴のシンデレラストーリー

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普通にしていたら勝てない

過去を振り返れば、東明を突き動かしてきたのは不安や悔しさ、周囲の期待に応えようという気持ちだった。富田高校卒業後は就職するつもりだったが、野球部の監督に「大学でやってみないか」と誘われ、考えを変えた。「やるなら関東に行って、もっとすごいヤツらが集まる世界を見てみろ」と言われ、高校3年の8月、桐蔭横浜大学のセレクションを受ける。スポーツ推薦はかわなかったものの、AO入試で合格した。

当時の東明について、齊藤監督は「そんなに評価していなかった」と言う。しかし翌年2月、入学前に桐蔭横浜大学の練習に参加すると、球速が格段に上がっていた。

高校入学から2年半の野球生活を終えた球児の中には、大学進学までにサボってしまう者も少なくない。むしろ、「遊びたい」と思うのは普通の感覚だろう。東明にもその気持ちはあったものの、欲望より不安が上回っていた。

「セレクションで自分よりすごい選手たちを見て、普通にしていたら勝てないと思いました。1対1の“よーいドン!”では勝てないから、ほかの人の練習量が落ちる時期に練習しておこう、と」

富田高校時代は結果こそ残せなかったものの、厳しい練習に打ち込んできた。高校野球から引退した夏以降も同じトレーニングを続け、新たにウエートトレーニングを始めた。東明自身は「何かを変えたわけではない」と言う一方、齊藤監督には「かなり練習してきたな」と映った。

東明にとって幸運だったのは、2006年に創部したばかりの桐蔭横浜大学野球部には、上級生が2学年上までしかいなかったことだ。「練習で技術を鍛えるのではなく、別の場所で技術を伸ばせという感じの監督でした」と東明が振り返るように、齊藤は選手の自主性を重視している。東明が自身を鍛えた場所は、打撃投手だった。

「バッティングピッチャーって、やりにくいんですね。先輩相手にストライクを投げなくてはいけないので、ある程度のプレッシャーがかかってきます。自分は『ほかのバッティングピッチャーがいないときは、とにかく投げておこう』とやりました。そうやって取り組んでいたから、『あいつは頑張っているから、とりあえず試合でも投げさせてみよう』となったと思います」

実戦形式で投げることで、東明はメキメキと実力を伸ばした。入学後もストレートの球速が上がり、1年夏に社会人の強豪・JR東日本と行ったオープン戦では三振の山を築いた。秋のリーグ戦が始まる前には齊藤監督が「秘密兵器」と期待するほどに成長し、4勝を飾った頃にはエースと呼ばれていた。

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