進みゆく言論統制と洗脳に気づかない恐ろしさ
このネットの世界では、退屈で受け入れがたい史実より、面白おかしく煽情的なヘイト・コンテンツを作り出す人にかぎって“オピニオンリーダー”になってしまっている。
“言うべきことを言う”のは大変結構だが、国内の一部でしか通用しない空想を声高に主張することは“愛国”ではなく単なる“情弱(情報弱者)”であることに気づいてほしい。
そして増大するこれらの無知で暴力的な人たちは、驚くべきことに権力者に支配されるのを盲目的に望んでおり、自分たちの先入観に相反する内容に対しては、暴力的に抹殺する方向に動くしか対応の仕方を知らない。
そのため今の日本社会が、原発汚染水問題もしかりだが、国民が知ってはいけないことだらけの、タブーだらけの社会になってしまっていることに、内部にいる人は気づかないのが恐ろしいかぎりである。
結果的に
“大阪NPO,南京大虐殺の展示を中止”
“映画 南京大虐殺上映中止”
“従軍慰安婦写真展、中止に追いやられる”
“はだしのゲン、小学校で閲覧制限”
”大阪府、教師の君が代斉唱の声量を測定”
“沖縄竹富町、住民の反対にも関わらず、政府が(戦争美化との批判が強い)育鵬社の教科書押し付け”
などといった一昔前はありえなかったことが頻発する、言論の封殺が世界3位の経済大国で、言論の自由が保障されているはずの民主主義国家で起こっている。
暴力的な言動で社会を“情弱”にし、結果的に“情弱”がマジョリティになってクロをシロという社会に私たちの子供は住むことになるのだろうか。
報道機関と広告会社の境界線が無くなっていく
最後に社会のオピニオンリーダーのあり方について一席ぶたせていただこう。そもそも視聴者や読者からの反応を恐れ、政治からの圧力を恐れ、恐れてばっかりで当たり障りのないことしか書けないマスコミなど、必要ないとは思いませんか。
オピニオンリーダーとは扇動された集団心理に狂う周囲の反対をおしのけて導くものであり、同調圧力と暴力におびえる報道機関など、存在価値がないのだが、メディアがネット化してビジネスモデルが広告収入に代わると“大衆ウケ”することばかり考えるようになり、報道機関と広告会社の境目がなくなってしまうのは、どこの国でも起こりうる、デジタル化の不幸な副作用なのかもしれない。
「お互い冷静に」「対話を始めたらどうか」などの無難で無意味な論評で終わる新聞も無用である。情報を伝えるだけならもはやネットにお株は奪われており、分析力の深さや提言の切れ味で勝負しなければならないのに、(東洋経済以外の)メディアの記事および、(東洋経済読者以外の)大衆のレベルの低さに愕然とする。
報道機関の現状を憂い嘆く私はここで、より上質なオピニオンリーダーを育成し、肩を押すことで、今後は後進の指導に当たることにした。
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