デジタル一眼で大成功 ニコン特別顧問・小野茂夫氏①

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おの・しげお ニコン特別顧問。1931年生まれ。54年東京大学工学部精密工学科卒、日本光学工業(現ニコン)入社。カメラ事業部長などを経て93~97年社長、97~2001年会長。東京工芸大学理事長、日本バリュー・エンジニアリング協会会長を兼ねる。

入社してずっとカメラの設計一筋にやってきました。まさにカメラと共に半世紀です。長く続いたフィルム時代からデジタル時代になり、カメラは劇的に変わりました。一言で言えば誰もが楽しめるものになりました。ご婦人のグループ旅行を見ていても、皆さんデジタルカメラをお持ちです。簡単に撮影できて、撮ったものをすぐ見られる。カメラは新しい時代を迎えました。

 需要に火をつけたのは、カシオさんが1995年に発売した「QV‐10」です。これは6万5000円という低価格で、写真としては粗い画像でしたが、背面につけた液晶ですぐ見られて斬新でした。カシオさんは携帯型の液晶テレビを販売しており、販売を一層伸ばすためにカメラ機能をつけてみたそうです。しかし、価格が高くなりすぎることから大胆にもTVチューナーを外したところヒット作になった。狙っていたわけではないが、結果的に新しい価値創造に成功したことになります。こうした事情は昨年、同社に聞いて知りました。思い切った企画がなぜ生まれたのか、ずっと不思議で知りたいと思っていたからです。

「D1」が大ヒット

ニコンは報道機関向けのフィルム電送装置などを製品化しており、画像のデジタル化では技術の蓄積がありました。90年代には報道用の一眼レフのデジタルカメラも出していました。ただし、一般向けは開発していませんでした。そこで96年に社長直轄のプロジェクトを発足させ、一般向け機種の開発を進めました。99年に発売した「D1」はその成果です。当時のデジタル一眼レフは100万円以上しましたが、そこに65万円の値付けで投入。デジタルカメラに不可欠なセンサーの開発では、低価格にするため半導体メーカーなどに無理を聞いてもらいました。D1はそれまでのフィルムカメラに近い操作性や軽量化を実現し、大ヒットとなりました。

ニコンは報道と強いつながりがあったため、カメラの機能を単に「フィルムに画像を記録する道具」ととらえるのではなく、「情報伝達システムの入力機器」と考えていました。カメラはあくまでも情報を入力する機器。それをどう記録、伝達するかにもニコンは意を払ってきました。ビデオカメラが出てきたときも、将来は必ず電子的に記録することになるとの直観がありました。ですのでD1の開発でも、デジタルの利点が十分に発揮できるように考えました。99年が「デジタル一眼、元年」と言われるようになったのは、カメラ屋としてはうれしいかぎりです。

週刊東洋経済編集部
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