神社仏閣の作り手が一体誰か知っていますか 伝統の「宮大工」の全容を網羅する蘊蓄100章

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41. 以来、2005年に経営危機に陥るまで神社仏閣の建築、城郭や文化財建造物の修理などを手掛けてきた

42. 江戸時代までは四天王寺のお抱え宮大工で、織田信長の焼き討ちや大坂冬の陣での焼失時も歴代が再興した

43. その教えの中心にあったのは約400年前に第32代当主金剛興八郎喜定が残した遺言書「職家心得の事」

44. その心得の根底にあるのは〈いつの時代に誰に見られても恥じない仕事をする〉ことであった

45. 織田信長の安土城建設を描いた山本兼一の小説『火天の城』の主人公・岡部又右衛門は実在の宮大工であった

46. 岡部又右衛門の生没年は不明だが尾張熱田の宮大工の棟梁で、室町時代~安土桃山時代に活躍した

47. 「岡部家由諸書」によると室町幕府将軍家の修理職(しゅりしき)を務めた家柄とされる

48. 岡部又右衛門は1573年に近江・佐和山の山麓で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍艦を建造

49. 1575年には織田信長の「熱田神宮」造営に被宮大工として参加している

その名を後世に残す宮大工たち

50. 1576年に築城された「安土城」では棟梁として当時不可能とされた五重の天守閣造営を息子・以俊と共に指揮

51. その功績によって岡部又右衛門は信長から「総大匠司」の位と「日本総天主棟梁」の称号を与えられている

52. 1582年の「本能寺の変」では信長と同宿していたとされるがかろうじて難を逃れ、没後は孫の宗光が相続した

53. 京都・東本願寺の山門の造営などを手掛けた「四代目佐々木嘉平」は1889年富山県の宮大工の家に生まれた

54. 三代目である父に師事し、独学で技術や知識を習得。日本各地の国宝や重要文化財の修復保存に関わった

55. 石川「妙成寺」五重塔や鎌倉「建長寺」仏殿・勅使門の復元、京都「興正寺」では阿弥陀堂及び山門を再建

今日の本堂が再建された(撮影:尾形文繁)

56. 1945年3月10日の東京大空襲で焼失した東京・浅草「浅草寺」の観音堂(本堂)の修理も手掛けた

57. この修理の際、境内の本堂脇に修理事務所が設置され、佐々木嘉平はそこで作業にあたったという

58. 愛媛県出身の宮大工で四国を中心に活躍した「窪田文治郎」は先祖代々、社寺建築の棟梁の家柄であった

59. 明治末期から父や京都の名匠・奥谷熊之輔に師事し、多くの専門技術と知識を学んだ

60. 1922年窪田文治郎は四年の歳月をかけた四国八十八カ所の49番札所「浄土寺」の仁王門を32歳で完成

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