61. のちに50番札所「繁多寺」の本堂・大師堂・山門、45番「岩屋寺」の本堂・大師堂・山門を完成させた
62. ほかにも「日尾八幡神社」の神門・拝殿や「道後湯神社」の拝殿など数多くの仕事を残している
63. 奈良・斑鳩町出身で祖父、父と代々、法隆寺専属の宮大工棟梁を務め、数々の偉業と名言を残した「西岡常一」
64. 1908年生まれの彼は幼少時から祖父に連れられて法隆寺に出入りし、1924年に宮大工見習いとなった
65. 1928年宮大工として独立し、法隆寺の修理工事に参加。1934年には「法隆寺」の棟梁となる
66. その後、1959年には明王院五重塔、1967年法輪寺三重塔、1970年薬師寺金堂・同西塔などを棟梁として再建
67. 再建プロジェクトではたびたび学者との論争が起こったが西岡は一歩も引かずに自論を通したといわれる
68. そのため西岡は周囲から「法隆寺には鬼(=西岡)がおる」と畏敬を込めて言われたという
69. また飛鳥時代から継承されてきた寺院建築の技術を後世に伝える者として〈最後の宮大工〉とも称された
途絶えていた古代の大工道具「槍鉋」の復活
70. 彼の偉業のひとつが、途絶えていた古代の大工道具「槍鉋(やりがんな)」の復活である
71. 法隆寺金堂の再建のために飛鳥時代の柱の復元を目指していた西岡は回廊や中門の柱の手触りに注目
72. その柔らかな手触りから従来の台鉋や手斧ではなく、創建時に使用された槍鉋なら再建が可能と導き出した
73. ところが槍鉋は15~16世紀に使用が途絶えて以来、実物もなく使用方法も分からない幻の道具であった
74. 西岡は全国の古墳などから出土した槍鉋の資料を収集し、それを元に挑戦するが思うものができない
75. 仕方なく正倉院にあった小ぶりな槍鉋を元に再現するが、現代の鉄では品質が悪くうまく切れなかった
76. 西岡は法隆寺にあった飛鳥時代の古釘を素材として使うことを決め、堺の刀匠・水野正範に制作を依頼
77. 水野の手によって完成した槍鉋は刃の色から異なり、西岡も感服するほどの出来栄えだったという
78. 完成した槍鉋を手に絵巻物などを研究し、西岡は三年間の試行錯誤の末、その使用方法を見いだした
79. それは体を60度に傾け腹に力を入れて一気に引くという方法で、西岡は〈へそで削る〉と表現した
80. 槍鉋を使うとスプーンで切り取ったような跡が残るが、その切り口は温かみを感じる独特のものだった
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