高倉健、2人の親友がいま明かす名優の素顔 少年刑務所の慰問で何を語ったのか
敷田の他にもうひとり、高倉健さんが信頼し、講演を承諾した親友がいる。田中節夫さん、元警察庁長官である。親友で、高倉健が亡くなった時、最後に見送った6人のうちのひとりだ。しかし、なんと、高倉健さんと田中節夫さんはたった一度しか会っていない。
田中さんはこう言っている。
「高倉さんにお目にかかったのは長官になった年(2000年)の2月でした。福岡市で開催された『銃器犯罪根絶の集い・福岡大会』のゲストスピーカーに来ていただいたんです。スピーカーにお願いしたのは私ではありません。全国の大会でしたから、誰か警察庁の担当者が決めたのでしょう。
高倉さんはちょうど『鉄道員(ぽっぽや)』に出た頃でしたから、観客は多かった。おかげで大会は大盛況でした。そして、講演が終ってごあいさつした時が初対面で、あとにも先にも面と向かって話をしたのはその時だけです」
しかし、ふたりのつきあいは長く続く。すべては手紙のやり取りだった。わたしはふたりが交わした手紙は見ていない。しかし、田中さんからの手紙は何通か持っている。達筆というより、女性的なやさしい文字で流麗だ。しかし、細い万年筆で書かれた字はしっかりと紙のなかに浸透している。
一方、高倉さんの筆跡は男性的で、筆圧も強く紙に彫り込むようにインクが入っている。
見た目は対照的だが、インクの色は漆黒である。
日本画に墨絵というものがある。墨絵を描く時、画家は表面を撫でるように墨を載せるのではなく、紙のなかへ墨を入れていく。
「カンナで紙を削っても墨が残る」ように描くのが墨絵だ。どれほど淡い色であっても、一流画家が描いた墨絵の色は漆黒で、髪に浸透している。ふたりの文字はそれだ。
たった一度、ふたりが会った時、高倉健は饒舌で、「何度でも講演しますよ」と語ったという。彼にとってはとても珍しいことだ。
田中さんは語る。
「こうおっしゃってくれました。『警察のキャンペーンで協力できることがあればやります。他にも俳優をご紹介します』
その後、実際に小林稔侍さんをご紹介いただいて、小林さんにも講演していただいたのです。
高倉健さんが親友に送った手紙
そして、私がつらい時期を過ごしていた時、手紙をいただきました。そのなかに言葉がありました。
今も時々、読み直しています。
高倉さんは大きな人物でした。包容力があって……。静かな感じで……。ええ、なんとも言えない方でしたね」
高倉健さんが心友と呼んだのが敷田稔さんであり、田中節夫さんだった。敷田さんも田中さんも実際に会うと、ゆったりとしていて、静かで、眼光の鋭い男だ。そのふたりが「大きな人物でした」と呼んだのが高倉健さんだった。
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