高倉健、2人の親友がいま明かす名優の素顔 少年刑務所の慰問で何を語ったのか
「心友」だった検事と警察庁長官
高倉健さんの親友が敷田稔さん。旧制東筑中学以来のつきあいだった。残念なことに本書『高倉健ラストインタヴューズ』が出る前、9月12日に心不全で亡くなった。わたしはご存命の時にご自宅に行って、話をうかがった。
敷田さんは1932年、北九州生まれ。年齢は高倉さんよりも1歳下だけれど、戦後の混乱もあって中学、高校は同級である。東筑高校を出た後、九州大学法学部に進む。司法修習生を経て検事に任官したのは1956年。その後、ハーバード大学ロースクールに留学、検察官としてさまざまな仕事をし、名古屋高検の検事長として定年を迎えた。1961年、国連アジア極東犯罪防止研修所の創設に関わり、国際検察官協会副会長も務めた。
亡くなる前、わたしが訪ねていったのは湘南江の島が見えるマンションだった。夫人とふたりで暮らしていた敷田さんは「高倉さんのことで覚えていることはありますか」と訊ねたら、ひとことだけ呟いた。
「いい男だったねえ。子どもの頃からうんといい男だった」
「僕らは筑豊の川筋で育ったんですよ。あの辺は男っぽい雰囲気で、ケンカなんて当たり前だ。義理人情を重んじる気性の人たちばかりですよ。剛ちゃん(高倉健のこと 小田剛一)もお父さんも川筋者の典型でした。男っぽいけれど、人見知りで、まさか剛ちゃんが人前で演技する俳優になるなんて、あの頃は考えられなかった。
ふたりで英語の勉強をして、密航しようと企てたこともありました。剛ちゃんのところの使用人に、止めてください、俺が大将から殺されますと言われたから」
1986年、法務省矯正局長の時、敷田さんは幼馴染の高倉さんに川越の少年刑務所で講話をしてくれないかと頼んだ。
「川越の少年刑務所での講演が初めての慰問だったのじゃないか。他の人が頼んでも、剛ちゃんはああいう性格だから、やらんよ。真面目だから、一生懸命、考えるんだよ。講演について。結局、言ったことは短かった。早く、ここを出て帰ってくれ、と。だが、高倉健が言ったことだから、少年たちも耳を澄ませて聞いていた。剛ちゃんでなくてはできないことだった」
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