外交官に見る、日本型エリートの弱点
山折:日本の教養主義は、ドイツ的な教養だけを一方的に取り込んでしまった面があります。
鷲田:それが戦後にもそのまま引き継がれています。教養の概念は戦前と戦後では全然違いますが、だんだん「知識としての教養」になっていったという意味では、連続性があるような気がします。「お前、あの本読んだか?」という感じでしょう?
山折:「読んでいる、読んでいない」「知っている、知らない」というのがコンプレックスの原因になってしまう。つまらない競争をやっていたものだと思いますよ。
非常に誇張した例ですが、外交交渉の場で、日本と欧米の外交官の教養の差が歴然と現れるとよく言われます。日本の帝国大学の法学部を出た外交官は、法律しか知らない。一方、イギリスやアメリカの外交官は、法律のほかに文学、哲学、芸術の世界を知っている。これでは勝てっこない。
知識として受け入れているだけでは、外交交渉の修羅場ですっとその言葉が出てこない。経済的な問題を議論しているときに、自然とシェークスピアや聖書の一節が出てくると強いですよ。
鷲田:それは、権力ではなくひとつの権威になりますね。
山折:知的権威と言ってもいいでしょう。日本にも、明治時代には、万葉集や源氏物語や方丈記の言葉をすっと出しながら、外交交渉に臨む外交官がいたかもしれない。小村寿太郎は、そういう身体化された教養をバックにしていたような気がします。教養の欠如に加えて、日本の外交官は専門性もあまり感じられない。
鷲田:日本の外交官は、いちばんエリートは大学中退でしょう。大学時代に試験に合格して、そのまま大学を辞めてしまうので学位がない。それに対して、海外の外交官はほとんどが博士号を持っています。ある中退組の外交官が「あれは格好悪いし、恥ずかしかった」と言っていました。
山折:学生のうちに、試験に受かって官僚になるのは秀才かもしれないけれども、教養を身に付ける時間はないわけですよ。すぐ専門的な技術を身に付けないといけない。
鷲田:そして何より、ドクターを取る過程で体にしみ付く身体知がある。いろんな物を読んで、ああでもないこうでもないと考えながら論を組み立てて、長い論文を書くトレーニングを積んでいるかどうかで、大きな差が出ます。
山折:そうですね。
鷲田:英語ができるか、できないかという話ではないんですよ。
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