開催コンセプトを熟慮すべきだった?
猪瀬さんが「一番招致したい目的は、自分達に自信をなくしている日本人に、日本人は優秀だということを教えたい」と語っているらしいが、これもオリンピック招致の顔がオリンピックの目的としてぶちあげるには、国内的には響いても諸外国のIOC委員には響かないだろう。
オリンピック招致活動全体を通じて思うのはいかんせん、前回の招致活動でもいつぞやの大阪のオリンピック招致活動(これ、覚えている人ってどれだけいるんだろう)でも同じ問題があったらしいのだが、なぜ東京でオリンピックを開くのか、の出発点のコンセプトの弱さがその後の迷走に繋がっているようだ。
“経済的にできる”“コンパクトにできる”などはイスタンブールもマドリードもどこの言っていることであり、“震災支援への感謝”や“復興した姿”というのも、とってつけた感がぬぐえず、100名近くの多様なIOC委員がいるなかでその国際感覚とずれていると言わざるを得ない。コンセプトだけでみれば、イスタンブールの“イスラム圏初”とか“東西文化の融合”が他の都市に圧勝している。
何千億円が投入される東京五輪で、他国の招致活動とケタ違いの巨額の予算を広告に投入しながら、政治家が国際的な場でのプレゼンが下手なのは今にはじまったことではないにしても、これに関わった広告会社とかコンサルティング会社は、巨額の税金から報酬をもらいながら、“Discover Tomorrow”というわけのわからないキャッチフレーズを作ることぐらいしかできないのだろうか。
特に東京五輪招致は三度目の正直で、長年の準備期間があったはずなのに、この最後の段階で”そもそものコンセプト論“が沸き起こっていることに大きな問題意識を感じる。本日の最終プレゼンでどれだけ感動的な売り込みをしてくれるかに期待したいが、原発汚染水の問題にしても透明性が確保されていないにもかかわらず、呪文の様に”安全、安全“を繰り返すのだけは辞めていただきたい。国内世論を黙らせるやり方は国際世論には通じないと、強く認識する必要があるだろう。
東京五輪の機は熟したか?
最後になるが、目の前にちょうど中国人のマッキンゼーの友達がいたので、オリンピック招致に関して聞いてみた。残念なことだが、サッカー好きの彼はマドリードを応援しているらしい。私が野暮なことに「北京オリンピックも、巨額のおカネをかけて損失が大きかったのでは?」と聞いてみたら、「それは我々の優先事項ではない。今の中国を世界に向けてアピールするいいタイミングだったし、どれだけ損をしようが国民が熱狂的に支持していて、大半の人が本当にハッピーになった」と語ってくれた。
五輪招致と五輪開催に成功するのは、こういうまさに国民的気運が熟して全国民的な支持が深く、強い時なんだろう。別にどこの都市に限った話ではないが、上からの働き掛けにより政治主導で進められた五輪招致活動は、説得力にやはり限界があるのかなとも感じた、開催地発表前日のシンガポールの朝であった。
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