トークライブを編み出した元左翼の波瀾曲折 「新宿ロフトプラスワン」はこうして生まれた

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そして22歳の頃、地下に潜った。

「そのまま表にいたら、殺されちゃうからね。革命なんて結局、人を殺すか、殺されるか。ロマンなんてないよ。具体的には、半年くらい、アルバイトをして生計を立てていた」

平野さんの叔父にあたる、平野威馬雄は、フランス文学者、詩人で知られる大物だ。料理愛好家の平野レミさんのお父さんにあたる人でもある。平野さんは半年後、その叔父のコネを使って、小さな出版社に就職した。

「漫画の編集者になった。当時はまだ無名だった、滝田ゆうと谷岡ヤスジの担当編集をしていてね。このまま漫画の編集者としてやっていくんだ、と思っていたんだ、本当に。でも会社内に新左翼系の組織を作っちゃった。バリケードを作って、ストライキをやったり……。馬鹿だよね。血が騒いじゃったんだろうね」

会社からは指名解雇を命じられたが、断固拒否した。それでも、会社からは編集の仕事は取り上げられ、以降、何の仕事も与えられなかった。朝9時から6時まで、何もせず、ひたすら机の前に座っているだけの日々が続く。4カ月目に心が折れて、会社を辞めた。辞めたはいいが、再就職先は見つからなかった。その頃は結婚していて、子どもも1人いたので大いに焦った。

「どの会社に行っても門前払いされる。会社に試験を受けに行くと、警察の公安から会社に『あいつは2回逮捕経験がある人間だ』ってタレコミの電話が入る。受かるわけがないよね」

コレクション数70枚でジャズ喫茶を開く

にっちもさっちもいかなくなってしまった。どうしようか途方に暮れていると、部屋にあるジャズレコードが目についた。

「当時、ジャズのレコードを70枚くらい持ってたのね。じゃあ、ジャズ喫茶をやるか、って世田谷区の烏山に7坪の小さなお店を開いた」

当時、ジャズ喫茶は流行っていたが、どの店も1万~2万枚くらいのレコードは用意していた。70枚は、素人のコレクションとしても少ないほうだ。普通の人は、それだけしかレコードを持たずに、ジャズ喫茶を開こうとは思わないだろう。

「70枚しかないから“できない”ことはない、“できる”んだよ。店はお客を相手にすればいいんだから。お客っていうのは、店やマスターに愛されることを極度に喜ぶんだ。とにかくやり始めたら、何とかなるよ」

おそらく何とかなったのは、平野さんが天性の“人たらし”だからであろう。どこに行っても、いつの間にか場の中心人物になり、周りの人たちから愛される才能を持っている。

ジャズ喫茶も最初こそ不平不満が出たが、すぐにお客たちが「かわいそうだから、俺のコレクションを貸してやるよ」と、おのおのレコードを持ってくるようになった。集まってくるレコードは、ジャズだけではなく、ロックのレコードもあった。そこで初めて、大音量でレッド・ツェッペリンやピンク・フロイドを聞いた。日本人のロッカー、浅川マキ、友部正人、そして、はっぴいえんど を知った。

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