トークライブを編み出した元左翼の波瀾曲折 「新宿ロフトプラスワン」はこうして生まれた

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まずは革命が起こっているポーランドに行って、レフ・ワレサ議長の独立自主管理労働組合「連帯」のドアを叩き、「俺も入れてくれ」と頼んだが、残念ながら入れなかった。

そこから4年間ぐるぐると世界中を旅した。バックパッカーをしている間は現地で働いた。オレンジ畑で収穫をして、日本語の先生をして、一日中皿洗いをした。楽しい日々だったが、だんだん体がボロボロになっていく。最後に、旅をするのがいちばん難しいと言われるサハラ砂漠に向かうことにした。サハラに着く前にマラリアに感染して、高熱が続き、睾丸は信楽焼の狸のように腫れあがっていたが、それでも幸せを感じていた。

「そもそも、死ぬかもしれないと思って旅してたからね。自分の意思でサハラに来たんだから、ここで死んでもしょうがないと思ったし、安らかに死ねると思った」

しかし、平野さんは死ななかった。放浪の旅を終えたが、まだ日本には帰る気にはならなかった。

「だったら旅じゃない外国生活をしようと思った。好きな土地に根を張って、住人に愛されるようなお店を開こうと思ったんだ」

ドミニカ共和国に移り住み…

平野さんが選んだのは、ドミニカ共和国だった。理由は、一応は民主政権であり比較的治安がよかった。メレンゲというドミニカ共和国特有の音楽も好きだったからだ。

カリブ海で初の日本レストランを作ることにした。前回の放浪の旅はほとんどおカネを使わなかったので、現金はたくさん残っていた。カリブ海をあおぐ絶好のロケーションの物件を借り、日本から日本料理の板前も呼び寄せた。

こうして始めたお店だったが、苦労は絶えなかった。まずスペイン語を覚えなければならない。ドミニカ共和国には、マグロもワサビも何にもない。輸入も禁止されているため、マイアミまで車を飛ばして、食材を仕入れた。冷凍設備もほとんどなかったので、新鮮な魚を入手するため、毎日地元の漁師から買い入れた。当然、海が荒れている日は、手に入れられない。それだけ苦労しても、平野さん自身あまり食べたいと思えないレベルの日本料理しか提供できなかった。

「たしかにニューヨーカーやボンで店を出したら、成功していたと思うよ。でも、それじゃ面白くないじゃない? 日本からいちばん遠い、誰も店を出したことがない場所に店を出すから面白いんじゃないか」

赤字続きではあったが、それでも何とかお店は続いていた。5年間続けたが、その間にドミニカは変わっていった。オイルショックで不景気になり、客足は減った。その影響か治安も悪くなった。レストランのオーナーは、おカネを持っているから狙われやすい。銃を持たないと、おちおち外も歩けなくなった。なんだかあまり好きな国ではなくなっていった。国を愛せなくなると、商売を続ける気持ちも下がっていく。

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