トークライブを編み出した元左翼の波瀾曲折 「新宿ロフトプラスワン」はこうして生まれた

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そんな折、平野さんが日本に一時帰国している間に、オープンから一緒に働いていた店長が自殺した。理由はわからない。ただ、それで本当に店をやめようと思った。

調度品、自動車などは、全部地元のスタッフにあげた。ただ、すごすごと日本に帰るのも嫌だった。

「日本好きの人は絶対に来るお店だったからね。客で来ていた、外務大臣や日本駐在大使に、『大阪花博(国際花と緑の博覧会)に参加しよう。全部オレが仕切るから』と言って口説いた」

新宿ロフトプラスワン店内の様子(写真:筆者提供)

官僚政治家は、自分が高い地位にいる時に稼ぐこと、よい思いをすることしか考えていない人が多い。平野さんの「参加したら、日本一周の旅行に連れていってやる。下半身も満足させてやる」という言葉に、なんとドミニカ共和国の外務大臣が乗ったのだ。平野さんは、国際花と緑の博覧会 ドミニカ共和国館館長として日本に凱旋帰還した。日本の外務省の人たちが迎えに来た。そうして長い旅を終えて、平野さんはやっと日本に帰ってきた。

帰国後に新宿ロフトを作ったが… 

帰ってきた途端、新宿ロフトの移転問題が巻き起こり、結果的に現在の新宿ロフトを作ることになった。総面積なんと320坪。夢だった、店内にツーステージある最高峰のライブハウスができた。……だが、そこで終わってしまった。

「10年以上ロックから離れていて、今更ロックのライブハウスをできるワケがなかった。まったく通用しなかった」

新宿ロフトの店員から最新のロックだと教えられた曲は、平野さんの思うロックとは随分違っていた。「なんだ、こいつら! これでロックかよ」と腹立ちまぎれに渡されたレコードを全部捨てた。ライブハウスは賑わっていたけれど、かかわることはできない。なんだか老害みたいな存在になってしまった。

さて? どうしよう?

「遊び場が欲しかったんだよね。俺がたまれるような、俺好みの店を作ろうと思った。そこで思いついたのが『エド・サリバン・ショー』だった」

「エド・サリバン・ショー」は1948~1971年にかけてアメリカのCBSで放送された、バラエティ番組だ。ホストであるエド・サリバンがさまざまなゲストを呼び、トークを繰り広げた。

「俺が好きな人を呼んで話をしようと思った。それを見ながら客は酒を飲む。そんな店にしたかったんだ」

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