「それまでロックって馬鹿にしてたんだけど、こんなに面白いんだ!って感動した。特に、はっぴいえんどの日本語のロックには目からウロコが落ちたね。当時は、内田裕也が言った『ロックは英語で歌わなければならない』という言葉に、縛られていたんだ。『ぜひとも、はっぴいえんどを生音で聴きたい!』と思ったんだけど、残念なことに当時の東京では、ロックを聴ける場所がほとんどなかった」
今は全国に2000軒以上あるライブハウスだが、当時は京都に1軒あるだけだった。
「だったら、作っちゃおうってことになった。マイクスタンドの立て方も知らなかったけどね(笑)」
東京初のライブハウス「西荻窪ロフト」が完成
そして西荻窪のスーパーの1階に、東京初のライブハウス、「西荻窪ロフト」ができた。とにかく、ミュージシャンたちには喜ばれた。おカネが儲かるからではない。人前で演奏することができる、そのことが彼らは本当にうれしかったのだ。
ただし、最初のお店は防音設備もなく、音は近所にだだ漏れだった。演奏中に隣の家の親父が「うるせー!」と、怒鳴りながら包丁を持って殴り込んできたこともあった。
その頃から、どんどん日本のロックが英語から解放されていった。皆が、日本語で歌いだした。面白いバンドがどんどん出てきた。
西荻窪ではやっていられないということになり、荻窪で地下の物件を探してきて移転した。そこからは、毎年1軒ずつ新しいお店を出していくことになる。
そして1976年「新宿ロフト」を作った。今までは60~70人の収容人数だったが、300人も収容できた。高価で巨大なスピーカーも導入した。新宿ロフトができたことにより、日本のロックは市民権を得たのではないか、と平野さんは考えている。ライブハウスブームは空前の盛り上がりを見せ、今までは見向きもしなかった放送局や、不動産屋、レコード屋もどんどん参入してきた。
一方、世間の盛り上がりとは逆に、平野さんはなんだか興味がなくなってしまった。
「俺の役目は終わったなって思って。これからの人生ずっとロックにしがみついて生きていくのは嫌だった。だから、みんなに『俺は無期限放浪の旅に出るぞ!』って宣言した」
当時6軒あった店は店員に暖簾分けして、売ってしまった。ただし新宿ロフトだけは買い手がつかなかった。暖簾分けした店の保証金が返ってきて、数千万円が手に入った。旅の資金としては、十分すぎる額だ。
「当時はめちゃくちゃ自信家だった。生き馬の目を抜く東京で6軒も店をやってたんだから、外国に行ってもやっていける、という確固たる自信があった」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら