トークライブを編み出した元左翼の波瀾曲折 「新宿ロフトプラスワン」はこうして生まれた

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平野さんは珍しい家に生まれ育った。平野さんの祖父はヘンリイ・パイク・ブイという、人名辞典にも載っている著名な人物である。明治時代に日本に来たアメリカ人で、日本の文化にはまり、日本で生きた人だ。ヘンリイ氏が、明治天皇に仕えていたとされる女性平野駒と結婚して生まれたのが、平野さんの父親だ。

「オヤジは欧米人の2世だから、見た目がほとんど外国人なんだ。オヤジが、道端でべらんめえ口調で話していると、知らない人から『日本語うまいですね』と必ず言われていたよ」

平野さんにも4分の1、アメリカ人の血が流れている。確かに、ぱっと見は少しバタ臭いが、見た目以上に気質で苦労したという。

「欧米人の血が混じっているからか、どうにも日本人気質になれない。思っていることを、ハッキリ言ってしまって大喧嘩、なんてことがよくある。それで失敗続きだよ。俺は普通の日本人とは違うな……というのがいつもずっと心の奥にある」

小学生時代は貧しかった

平野 悠(ひらの ゆう)/「ライブハウスロフトグループ」席亭・平野悠。 音楽・サブカル・何でも面白いものは一切のタブーなしに表現できる空間を経営。人生は「旅・ロック・サブカル」。旅はバックパッカーとして世界100カ国を制覇。 ■新刊『TALK is LOFT 新宿ロフトプラスワン事件簿』ロフトブックスから発売中。ロフトプロジェクト(写真:筆者提供)

そんなある意味ゴージャスな家柄で育った平野さんだが、小学生時代は貧しかった。平野さんが特別貧しかったわけではない、戦後は日本中が貧しかった。子どもがたくさん生まれたため、学校は午前午後の2部授業だった。

弁当すら持てない子どもがたくさんいて、裏庭で芋を分け合って食べていた。やっと給食が出てきたと思ったら、アメリカから支給されたマズいマズい脱脂粉乳だった。

「家の米びつに、米が1粒もなくて、おふくろが泣き叫んでたのを覚えてる。とにかく貧しかった。貧しすぎた。今の価値観なんかまったく通じない時代だった。……でもなぜか、今となっては『いい思い出』として思い起こされるんだよな」

貧しい中、平野少年は、

「新聞記者になって、世界中を回って、記事を書きたい」

という夢を持った。

しかし、夢は成長とともに姿を変え、高校時代は左翼思想に目覚めて活動した。共産党の下部組織である、日本民主青年同盟に入り、高校3年の時には、平野さんが住む地区ブロックのトップになっていた。共産党にハマり、共産党こそ日本をよくすると思っていた。

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